〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-T』 〜 〜
== モ ー ツ ァ ル ト==
(著:ひ の ま ど か)

2017/04/16 (日) 

ブレンナー峠を越えて (三)

十五日に雪のインスブルックに着くと、レオポルトはすぐに宿屋の下男をつかわして、土地の貴族へ紹介状を届けさせた。
どんなに疲れていようとも、この手間を惜しんではならない。
それによって宿の食事とは比べものにならない豪華な食卓に招かれたり、その土地にいる間の馬車を提供されたり、ヴォルフガングのための緊急の音楽会が開かれたりして、食費や交通費が浮く上に、現金や金時計や指輪などの引出物が手に入るのである。
経済的に余裕がないレオポルトにとって、そうした利益は決して小さなものではなかった。というよりも、紹介状の伝をたどって稼ぎながら旅をしてゆくのが、モーツァルト一家のやり方だった。
今回のイタリア旅行も金持ちの物見遊山ものみゆざん ではなく、貧乏音楽家の修業と出稼ぎの旅なのである。一日中馬車に揺られた後でも、寝ころがってはうられない。
幸い 「神童モーツァルト」 の名は、インスブルックの人々の記憶に強く刻み込まれていたので、紹介状を受け取った貴族は親子を歓待し、土地の新聞は神童の到来を書きたてた。それは次に訪れる土地への事前宣伝にもなった。
こうして、オーストリア国内の大きな町を経由しながら旅を続けた親子が、イタリアとの国境にあるブレンナー峠にさしかかったのは、十二月二十日の朝のことである。
「ヴォルフガング、いよいよアルプス越えだぞ」
駅馬車はアルプス山中の昼なお暗い山道を、幾度も登ったり下りたしながら峠を登りつて行った。
周囲の山々は垂直にそびえ立ち、目に映るのは黒いモミの木立と、急な岩の斜面と、底知れない谷だけだった。
── もし馬が一頭でも足を踏み外したら、馬車はあの谷間にころげ落ちてこなごなになって砕けてしまうだろう。
馬の激しい息づかいと御者の真剣なかけ声を耳にした乗客たちは、さすがに口数も減って身を固くしていた。
「なあに、この御者は慣れたもんですよ。ちゃんとムチを当てるタイミングを心得ている。この前乗ったやつなど、途中で何回も止まってしまった。あれは冷汗ものでした」
年に何回かここを通るという商人が、みんなを励ましつづけました。

『モーツァルト』 著:ひのまどか ヨリ
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