「ウィーンの宮廷でマリア・テレージア
(オーストリアの女帝。在位1740年〜1780年。オーストリア皇帝ヨーゼフU世、フランス王妃マリー・アントワネットの母)
さまがわが子のように愛 でられたというのが、この御子だったのですか!」 「その時の様子をお話しますと
『作り話」 かと思われかねないのですが、実際にこの子は女帝陛下のお膝に飛び乗り、そのお首に抱きついて、気のすむまでキスをしたのです」 「なんと愛らしいこと!」 「女帝陛下もそのように仰せられてこの子をたいそうお気に入られ、いくたびも御前演奏することをおもとめになりました。そして最後においとまに伺った時には、この子と姉に皇子こうし
さまと皇女こうじょ さまがお召しになった立派な大礼服をお贈り下さったのです。この子のものは、藤色ふじいろ
の立派な織物で仕立てられて二重の金モールの縁取りがついた、それはそれは美しい服でした」 「ほう!」 「この子と同じ歳とし
のマクシミリアン皇子さまのために作られた服だったのです。しかしウィーンばかりでなく、パリでもロンドンでもこの子は皇族方のご寵愛ちょうあい
を賜りました。ヴェルサイユ宮殿では元旦がんたん
の夜の晩餐会ばんさんかい に出席して、この子は国王のテーブルにつき、王妃さま自ら取り分けられた料理をちょうだいしたのです。パッキンガム宮殿では、国王ジョージ三世ならびに王妃シャーロットさまから、言葉に尽くせぬほどのご愛顧をたまわり、そのあまりの親しさにわたしどもも、おふたりが国王と王妃であることを忘れるほどでした」 「ほう!」 「しかし、あの時の旅は疲れました。なにしろ三年半余りをかけての旅でしたから。この子が七歳の歳にザルツブルグを発って、十一歳にならんという時に戻ったのです」 「そんな小さな御子が!
よくご無事でしたな」 「いや、無事でもなかったのです。その時はわれわれは、以前にプレスブルグでもとめた自家用馬車で旅をしたのですが、というのもわたしども二人のほかに妻と、この子の姉と、召使を伴っておりましたので、その方が都合がよかろうと判断したのです。しかしその馬車はたびたび故障するし、馬を替えようにも個人の分は、駅馬車や貴族の方々が召し上げられた残りしか回って来ませんから、替馬かえうま
がなくて往生したこともたびたびでした」 「そうですか」 「しかしまあ、そのようなことは小さな事故でした。大変だったのはこの子と娘が幾度も大病を患って、そのたびに生死の境をくぐったことです。六歳の時のウィーン旅行では猩紅熱しょうこうねつ
にかかり、九歳の時にオランダに滞在していた時には腸チフスにかかって、姉の方は一時医者にも見離されたのです。わたしども夫婦は子供の枕もとで、死ぬほどの苦しみを味わいました。さらに、その次のウィーン訪問では今度はそろって天然痘てんねんとう
です。われわれがどれほど細心の注意を払っても、病だけはまぬがれられません。幸いこれまでのところ神様の思おぼ
し召め しで子供たちはわれわれの手に戻していただきましたが、これから先も、どのような病が待ち受けているか分かったものではありません。だからわたしはいつも旅では、何をおいても家庭薬を持ち歩くことにしているのです」
「わかります、わかります。旅では病が一番の災難ですからな」 「今回は妻と娘を家に残して来ました。二人とも来たがっていましたが、金も倍かかることですし。まあ、どこかで長逗留ながとうりゅう
することにでもなれば、呼び寄せるかも知れません」 「そうですか、・・・・やはりこの御子があの有名なモーツァルト氏だったのですか・・・・。どうりで普通の御子ではないと思っていました」 |