親子は
「謁見の間」 に入ると、順に老大司教の右手にうやうやしく接吻
した。 大司教も、同席する老アルコ伯爵も、宮内くない
大臣のフィルミアン伯爵も、にこやかに少年を見ていた。この場合だれもが少年を愛していた。 「そちたちが前々から熱望していたイタリア行きについて、余が返答をのばしていたのは、分かってはおろうが、ほかの楽員たちとの兼ね合いを考えてのことだ。何分にも、そちたちはこのザルツブルグを何年間も留守にしておったからの」 「仰せの通りでございます、猊下」 「だがその旅の間に、この子は神童ぶりをあまねく発揮して、そしたち親子の名とともにこのザルツブルグの名を世に広めてきた。この子は余の誇り、わがザルツブルグの誇りじゃ」 「ありがたきお言葉に勇をふるって申し上げますれば、これまでの旅のことごとくは、慈悲深い神によって、愚息に与えられました並々ならぬ才能を開花させるという、わたくしめに負わせられた責任において、果たしてまいりましたことでございます」 「もっともなことじゃ。余もこの神童をザルツブルグだけに留め置く気はない。そちはこの宝をますますみがくべく、努力するがよい」 「ははーっ」 「イタリア旅行を許可いたす。神がザルツブルグに生ましめたもうた奇跡を、広く世界に告げ知らせよ」 「ありがたきしあわせにございます。愚息にはまだまだ学ばせねばならぬことが多くございます。とりわけ
『音楽の祖国』 イタリアでの勉強は、この子の将来にとり、欠かせぬもので「ございます。愚息はイタリアにおいても演奏と作曲の腕をみがき、ザルツブルクと大司教猊下のお名まえを高めるべく努力いたすことでございましょう」 「余もその成果を大いに期待しておるぞ。ところで、旅の準備はすすんでおるかな?」 「はい、すでにオーストリア皇帝ご自身からの、フレンツェやナポリ、および皇帝直轄ちょっかつ
の国々への推薦状をたまわりましてございます。また、ザルツブルの宮廷におきましてもアルコ伯爵さま、フィルミアン伯爵さまをはじめ多くの貴族の方々から、イタリア各地の宮廷への紹介状をいただいております。さらにこれまでの旅で知り合いましたイタリアの演奏家や作曲家の方々からも、協力を惜しまぬと手紙で約束してくれております」 「それはよかったのう。旅慣れたそちのことじゃ、万事に手抜かりはなかろう。それでは余から餞別を贈らねばなるまいな。旅費として六百グルデンを支給いたそう。後ほど財務局で受け取るがよい。またこの子には、大司教宮廷楽団の第三コンサート・マスター
(オーケストラの第一ヴァイオリンの主席奏者) の称号を与えよう。はじめての土地においては、そのような肩書きも何かの役に立つやも知れぬ」 「猊下のあついお情けに感謝いたす術すべ
もございません。この上は猊下のご期待にそうべく、全力をあげて励むことをお誓いいたします」 「神がわがザルツブルクの息子、ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モトーツァルトを最良の道に導かれんことを」 大司教の祝福を受けて
「謁見の間」 を出た親子は、さすがに興奮を隠せなかった。 「よかったね、パパ。やっぱり大司教さまはおやさしいね」 「ああ、おまえのラテン語の洗礼名も、ちゃんとおぼえておられた。わたしはびっくりしたよ」 楽員たちは親子をかこんだ。 「やはり正式の許可が出たのですな!」 「大いにおめでとう!
われわれ宮廷楽団員にとっても喜ばしいことです」 街の待った許可が下りた安堵から、レオポルトの口も軽くなった。 イタリア行きはあらゆる事情から考えて、これ以上のばすことの出来ない段階に来ておりましたからな。それにわたしも早五十歳、長旅は今度が最後になるかもしれません」 「まあまあ、そのようなご謙遜けんそん
はおっしゃらずに、どうか心おきなく旅のご用意にかかられて下され」 「ご出発はいつごろのご予定で?」 「今日はもう十一月の十四日ですな。とすると、十二月のなかばになりましょう。ここからイタリア行きの駅馬車は週に一度しか出ませんから。六日に発た
つのが無理とすれば、十三日に決めねばなりますまい」 「おお、たいへんだ。それではひと月足らずですな。副楽長殿、宮廷楽団の仕事についてはどうかご心配なく。われわれは貴殿のご不在には慣れておりますので、お忙しいのにご無理をされることはありませんよ」 「それはかたじけない」 「すかしすばらしいお子を持たれてお幸せですなあ。われわれにはそのような幸運は願ってもめぐり来ません」 「何はともあれお達者で。そしてご子息の名声をますます高められて下され」
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