〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-T』 〜 〜
== モ ー ツ ァ ル ト==
(著:ひ の ま ど か)

2017/04/14 (金) 

プロローグ (三)
やっかみと、羨望せんぼう と、口先だけの激励に送られて、親子はレジデンツを出た。
帰りの石段で、ヴォルフガングは早くも口をとがらせて父に訴えた。
「パパ、やっぱりぼく、この町もここの人たちも嫌いだ」
「しっ、ヴォルフィー、誰が聞いているかも分からないんだと」
「だってみんな品がないし、心が貧しいよ。それに、パパ、気がついたでしょう? ハイドンさんなんか、まだ朝だっていうのにお酒臭かったよ」
「ここを一歩も出なければ、それもしかたのないことなんだよ。それに比べて、おまえはたくさんの国に行き、たくさんの人に会っている。おまえほどたくさんのことを経験した人間は、おとなといえどもここにはいないのだ。だから父さんは何を言われても気にならない。大司教さまがおまえを可愛がって下されば下さるほど、色々なことを言われるのさ」
─── しかし、猊下も考えたものだ。この子をコンサート・マスターにするとは。
その称号が、息子をザルツブルクの宮廷にしっかりと繋ぎとめる鎖の役を果たすことを見抜けないレオポルトではなかった。大司教の方も、もしかしたらレオポルトの本心を見抜いているのかも知れない。しかし、今はどちらも何も口に出さない。まだ何も始まってはいないのだから。
「でも、ここのことなんか、もうどうでもいいや。また旅に出られるんだもの! ぼく、旅が大好き。うれしいな!」

宮殿の外は肌を切るような風が吹き荒れ、レジデンツ広場の馬の彫刻で飾られた大噴水は、氷とつららに覆われていた。
その光景は見るからに寒々しかったが、すでに南国の太陽を心に浴びている親子は、うきうきとして噴水を眺めた。
「ヴォルフガング、父さんが持っているカイスラーという人が書いた 『ドイツ・イタリア最新旅行案内』 によれば、ローマには街角ごとにこんな大噴水があるんだそうだ」
「ローマでいっぱい、いいことがあるよねっ、パパ」
「ああ、ローマだけでなく、イタリア中どこでもだ!」
「早くママとナンネルに知らせよう、イタリア行きが決まったって」
親子は意気揚々とレジデンツ広場を横切り、ゲトライド通りの家に帰った行った。
ゲトライド通り九番地四階のモーツァルト家では、妻と娘が首を長くして今朝の結果を待ちわびているのだった。
『モーツァルト』 著:ひのまどか ヨリ