父と息子は、レジデンツ
(宮殿) の正面入口の、暗くゆるやかな長い長い石段を登って行った。 そこは、ザルツブルグの君主である大司教の宮殿にふさわしい、おごそかな雰囲気に満ちた場所だった。大司教に陳情にあがる人々は、まずここで気おくれしてしまう。 だが息子ヴォルフガングは少しも緊張する様子もなく、まるで春の野原を行くように軽々と、優雅に足をはこんでいる。 その様子を見る父レオポルトの胸は、誇らしさでいっぱいになった。 ───
あたりまえのことだ。この子はすでにヨーロッパ中を回って、国王や名だたる貴族たちの宮殿を体験し尽くしているのだから。 少年は、十三歳という歳のわりにはひじょうに小柄だったが、見るからに賢そうで、愛らしく、王子のような気品と落ちつきがそなわっていた。 「パパ、大司教さまはいいお返事を下さるかしら?」 父の視線を感じたのか、ヴォルフガングはニッコリ笑いながらたずねてきた。 ───
ああ、この子を見る者はだれだっれほほ笑まずにはいられない! レオポルトも思わず白い歯を見せながら答えた。 「もちろんだとも。あのかたはいつだって私たちの味方じゃないか」 「そうだったね、パパ」 石段を登りきった二人は、石畳の広々とした
「騎士の間」 と、つづく赤と白の大広間を通りぬけて 「控えの間」 に入った。 こちらには大司教に仕える者でも、貴族たちか、宮廷楽団に雇われた音楽家しか入れない。平民や下僕には別の通路と待合室があった。 「おお、いよいよですな、副楽長モーツァルト殿」 「控えの間」
にいた音楽家たちは立って親子を迎えた。 「旅の準備は万端整われましたか?」 「イタリアに行かれるとはうらやましい。わたしもお供したいですな」 「いやいや楽長ロッリ殿、それに各々
がた。旅に出るも何も、私どもはまだ大司教猊下げいか
からお許しを頂いていないのですよ。お許しが出るとすれば、けさ、これからのことです」 「まあ、表向きはそうでしょうが」 「大司教猊下は、寛大であらせますからなあ、とりわけ貴殿がたには」 「謁見えっけん
の間」 の扉が開いて、侍従長の老アルコ伯爵はくしゃく
が親子を呼び入れた。 「モーツァルト殿、大司教シュラッテンバッハ伯爵がお呼びです」 |