〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-T』 〜 〜
== モ ー ツ ァ ル ト==
(著:ひ の ま ど か)

2017/04/13 (木) 

プロローグ (一)

父と息子は、レジデンツ (宮殿) の正面入口の、暗くゆるやかな長い長い石段を登って行った。
そこは、ザルツブルグの君主である大司教の宮殿にふさわしい、おごそかな雰囲気に満ちた場所だった。大司教に陳情にあがる人々は、まずここで気おくれしてしまう。
だが息子ヴォルフガングは少しも緊張する様子もなく、まるで春の野原を行くように軽々と、優雅に足をはこんでいる。
その様子を見る父レオポルトの胸は、誇らしさでいっぱいになった。
─── あたりまえのことだ。この子はすでにヨーロッパ中を回って、国王や名だたる貴族たちの宮殿を体験し尽くしているのだから。
少年は、十三歳という歳のわりにはひじょうに小柄だったが、見るからに賢そうで、愛らしく、王子のような気品と落ちつきがそなわっていた。
「パパ、大司教さまはいいお返事を下さるかしら?」
父の視線を感じたのか、ヴォルフガングはニッコリ笑いながらたずねてきた。
─── ああ、この子を見る者はだれだっれほほ笑まずにはいられない!
レオポルトも思わず白い歯を見せながら答えた。
「もちろんだとも。あのかたはいつだって私たちの味方じゃないか」
「そうだったね、パパ」
石段を登りきった二人は、石畳の広々とした 「騎士の間」 と、つづく赤と白の大広間を通りぬけて 「控えの間」 に入った。
こちらには大司教に仕える者でも、貴族たちか、宮廷楽団に雇われた音楽家しか入れない。平民や下僕には別の通路と待合室があった。
「おお、いよいよですな、副楽長モーツァルト殿」
「控えの間」 にいた音楽家たちは立って親子を迎えた。
「旅の準備は万端整われましたか?」
「イタリアに行かれるとはうらやましい。わたしもお供したいですな」
「いやいや楽長ロッリ殿、それに各々おのの がた。旅に出るも何も、私どもはまだ大司教猊下げいか からお許しを頂いていないのですよ。お許しが出るとすれば、けさ、これからのことです」
「まあ、表向きはそうでしょうが」
「大司教猊下は、寛大であらせますからなあ、とりわけ貴殿がたには」
謁見えっけん の間」 の扉が開いて、侍従長の老アルコ伯爵はくしゃく が親子を呼び入れた。
「モーツァルト殿、大司教シュラッテンバッハ伯爵がお呼びです」

『モーツァルト』 著:ひのまどか ヨリ
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