葬儀では、まず
≪葬送行進曲≫ がオーケストラで演奏され、ショパンが望んだモーツァルトの ≪クレイエム≫ ≪前奏曲≫ の四番と六番が演奏された。 棺はマドレーヌ寺院から、チャルトリスキ公、親友のドラクロワ、友人のプレイエル、マイヤベーア、第一の弟子グートマンらが付き添って、ペールラシェーズの墓地へと向かった。 今に残るショパンの墓の完成は、その後一年を待たねばならない。シランジュの夫クレザンジェはショパンの死に彫刻家としてかかわった。ショパンのデスマスクをとり、墓の記念碑の彫刻をデザインをし、それを完成させたのもクレザンジェだった。ショパンは二人の結婚には大反対だったのに、いざそれが決行されると、サンドよりもずっと気配りを忘れなかった。サンドとの決別の原因となった二人が、ショパンの死に際して、それぞれ深くショパンとかかわることになった。 墓のデザインの下絵はワルシャワのショパン博物館に残っているが、大きさが縦30センチ、横27センチ、ペンで描かれ、日付は1849年九月六日となっている。墓の記念碑資金が募られたのは死後三日たってからで、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓で記念碑が除幕されのは一周忌の1850年十月七日だった。 姉がその遺品を整理すると6000フランが残っていた。しかし死後の片付けにはこれだけでは足りなくて、姉はスターリングから5000フラン借りた。匿名のオークションという形でショパンの遺品の多くを売ることにしたが、ここでもスターリングがたくさんのものを買い取った。 その中には、ショパンが最後まで使っていたプレイエル社製のグランド・ピアノがある。それをスターリングは買い取り、響板に
「ルドヴィカのために」 と書いて、ワルシャワに送った。 ショパンがもっとも頼りにしていたルドヴィカのために、スターリングはさらに大切にしていたカメオを取り出した。葬儀の後片付けのためにパリに残るルドヴィカにカメオをプレゼントして贈ることを思いついたのだ。ショパンの横顔を彫ったカメオを真中にして、青の七宝を連ねてベルトにしたブレスレットだ。ショパンの顔が彫られたカメオ部分は1837年製のもので、それに
≪ノクターン≫ ≪マズルカ≫ ≪プレリュード≫ ≪バラード≫ ≪葬送行進曲≫ の楽譜の一部を描いた青の七宝をつなげた。 誰もが悲しみに沈んでいた。ドラクロワは葬儀が終わると
「敬愛する大切なショパンはもうこの世にはいないのです。この悲しみに耐えられないのです。だから季節は寒いのですが、パリにいたくないのです」 と十一月初め、友人への手紙に書いた。 ポリーヌは、耐え難い悲しみを分け与えるかのように、ショパンの臨終にも葬儀にも来なかったサンドに手紙を書いた。
── グートマン、フランコムなど臨終に駆けつけた音楽家たちみんなに葬儀にはいい音楽だけを演奏してほしいとショパンは頼みました、きっと聞こえるから楽しみにしているからと言いました、ポトツカ伯爵夫人が歌うマルチェッロの賛美歌に付き従ってその最後の音とともにショパンはこの世を去ったのですよと、書いた。 |