〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/17 (金) 

故 郷 へ
ショパンはサンドの毛髪をお守りのように小さな袋に入れてイギリスに渡った。二人の出会いから別れにいたるまでの手紙はもちろん大切にまとめていた。作曲が思うように出来なくなった時、ショパンはサンドからずっと助言されていた 『ピアノ演奏法』 の原稿を手がけだした。いつまでもサンドのことを忘れられないからだ、と誰もが考えた。
だから、ルドヴィカも、帰国の長旅で多くの荷物を持参できないとはいえ、ショパンの心臓と、ショパンが大切にしていた思い出の品としてサンドからの手紙を入れることを忘れなかったのだろう。
しかし、この手紙は今はない。ロシアが支配するポーランドにフランス語で書かれた手紙を、持ち込むことは出来ないとルドヴィカは考えた。だから国境近くにある宿の主にしばらく預けて、政治状況が落ち着いたら取りに来ることにした。だがその後もポーランドに自治は戻ることはなく、1851年その宿に立ち寄ったサンドの友人で作家のデュマ・フィスに手紙は託された。デュマは喜んでサンドに返した。しかしサンドはショパンとの思い出にひたる気持はなかった。結局手紙は自身の手で葬り去られてしまった。
心臓はルドヴィカと共に無事ワルシャワニ戻り聖十字架教会に収められた。年老いた母や恩師エルスネルは、心臓の入った壷を見てどれほど悲しみに暮れたことだろうか。1878年三月一日ショパンの誕生日を記念するレリーフが左側の白い柱に施されて、そこに心臓は安置された。第二次世界大戦でワルシャワの街とともに教会も壊滅状態となったが、その寸前に心臓は取り出され、戦後教会の復興と共に復元された柱に安置された。ショパンを記念する柱のレリーフにはジェラゾヴァ・ヴォラに生まれパリに死すよいう文字の上にショパンが正面を向いた像、胴体から足がト音記号となった天使、竪琴と音譜も彫られている。
亡骸が安置されているのは、パリでいちばん大きく緑深く美しい墓地ペール・ラシェーズで、ここには多くの芸術家、文人が眠っている。ショパンの親友だったドラクロワも、友人のベッリーニもいる。パリに来た当初、多くの音楽家たちを紹介してくれたロッシーニの記念碑もある。
ショパンの墓は、竪琴を手にしてうつむいた少女の像がいちばん上にあり、その下にショパンの横顔のレリーフがある。そして弟子や友人に恵まれたことを偲ぶかのように 「フリデリック・ショパンに」 「友人たちより」 の文字が彫られている。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ