最後のときを迎えるショパンの様子は、二枚の絵でうかがい知れる。じずれの絵にもどういうわけか、スターリングの姿はない。あれほどショパンを慕ったスターリングは、大切な師ショパンの死をどれほど悲しんだかは想像に難くない。しかし、スターリングに対するショパンの冷たい思いを象徴するかのように、残された絵の登場人物にはなっていない。絵にはマルツェリーナ公妃の姿があり、美しい姿で歌うポトツカ伯爵夫人もいる。さらにソランジュの姿が見える。 1849年十月十七日午前二時、ショパンに死が訪れた。グジマワによると、ショパンはその死の数時間前に、ポトツカ伯爵夫人にベッリーニとロッシーニなどのアリア三曲を歌ってほしいと頼んだという。ポトツカ夫人はその願いどおりにピアノを弾き、すすり泣きながら歌うと、ショパンの頬にも涙が伝ったという。 さらにグジマワはレオへの手紙で、
「ジョルジュ・サンドと出会うという運の悪さがなかったら、もっと長生きできただろうに」 と、たいせつなショパンを失った悔しさをぶつけた。 グートマンは自分と同じようにその死を嘆き悲しむマンハイムの親しい友人に、ショパンの最後を手紙で語った。ショパンの手を取るともう目が見えないのか、誰が自分に手を握っているのかとたずねたという。グレートマンだと分かると手に口づけをし、抱きかかえると頬に別れのキスをした。そして
「ああ君」 と言い、グレートマンの胸の中で息絶えたという。この手紙には、葬儀の日取りを知らせる文も書かれている。さらにショパンの死の床に飾られていた花と形見分けのようにショパンの髪が一房入れられた。 葬儀は三十日、パリのマドレーヌ寺院で執り行われた。ショパンの葬儀には多くの人が押し寄せることが予想された。有力新聞はこぞって追悼文を載せた。参列者を限る必要があった。 姉のルドヴィカの名で案内状が送られた。ヴァンドーム広場、ライン館に滞在中のマルツェリーナ・チャルトリスか公妃に宛てられたものが残っている。
「フィデリック・ショパンの葬儀へのご案内。パリのマドレーヌ・寺院とペール・ラシェーズ墓地にて執り行われることをご案内します。1849年十月三十日」。 寺院の中には、パリの著名人のほとんどがつめかけ、その数は三千人にのぼったといわれている。 |