〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/15 (水) 

最 後 の 日 々

ショパンが肉親に会いたがっていることは誰の目にも明らかだった。六月になって大量に喀血して、ショパンは姉にどうしても再会したいという思いを強くして手紙を書いた。姉に会うことだけが唯一の自分の救いだが、姉の旅費を自分はどうすることも出来ないとある。七月になっても姉からは返事はない。グジマワへの手紙にピアノをあまり弾かないこと、作曲はまったく出来ないとある。パリを離れているデルフィナ・ポトツカから手紙が来て、ショパンの姉は政治的理由からなかなかパリ行きの許可が出ないことがわかった。マルツェリーナ公妃、デルフィナ伯爵夫人、それにオブリェスコフ公妃は政治的なコネを駆使して、やっとルドヴィカにパスポートが渡された。八月九日待ちに待った姉がやって来た。
サンドはパリにいる知り合いを介してルドヴィカに手紙を書いた。ショパンとの別れの原因がすべて自分にあると思われているだろうが、自分だけに非があるわけではないkとを理解してほしいという内容だ。ノアンに滞在したルドヴィカとの日々、その心温まる時間を思い出してくれたら、もんなが言うほど自分の行動はひどいとはお考えにならないでしょうというものだ。この手紙にはもちろん、返事はなかった。
ショパンは姉が来て精神的に落ち着きを取り戻した。しかし目の前には冬の寒さが迫っている。パリ市内の南向きの住まいを探し、高くてたいへんだがヴァンドーム広場にした、とツールにいるフランコムに書いた。冬には友人たちを温かい部屋に迎えられるとある。
ショパンが生涯でもっとも心を許したポーランド時代の親友のティトゥス・ヴォィチェホフスキが、ベルギーのオステントまで来ていることを知った。一緒に過ごしたウィーンの若き日々の思い出を蘇らせ、どうしても会いたい、そう心から願う、と手紙を出した。ティトゥスがパリのショパンのもとに来るには、ロシアの許可が必要だ。自分の体力が許すのなら会いに行きたい、だがそてはかなわぬ望みだ。もう汽車の乗る気力もない。ティトゥスに何をしてでも来てくれと願うほど自分は利己的ではない。でも、もし会えれば、自分は病気だけれども、来てくれたティトゥスに退屈はさせないつもりだ。充実して幸福を感じる時間にするから、と細かい気配りを遠くにいる大切な友達に示した。
フランコムには二、三日でもいいから来てくれないかと書いた。1846年に作った最後の傑作 ≪チェロ・ソナタ≫ をフランコムとまた演奏したかったのだろうか。二十二歳のときリストの紹介で知り合って以来、フランコムとの長い友情にも最後の時が近づいていた。1849年九月十七日、フランコムに宛ててペンを取ったのが最後の手紙となった。
グジマワはショパンの死後、ヴァンドームの美しいアパルトマンでの日々を友人レオに宛てて書いた。それによると、ショパンは最後までなんとか作曲しようとしていたという。しかしもう、ピアノの前に座ることもペンを握ることも出来なかった。ショパンはグジマワや姉に向かって、スケッチ程度の書き残したものがたくさんあるが、友情の名のもとに必ず焼却してほしいと遺言したという。公にする価値のないものが、死後、自分の作品として広まってほしくないからだと、その理由を語った。ピアノの手引書は何かの役に立つかも知れないので、友人のアルカンとルベールに遺贈したいと言った。しかし、ショパンの才能の形見であるスケッチを誰も焼こうなどとは考えなった。姉やフランコムの手に引き取られ、絶筆といわれる ≪マズルカ≫ ヘ短調は、フォンタナの編集によって1855年に出版された。
ショパンは、マルズカでその人生を閉じた。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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