〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/14 (火) 

パ リ 帰 還

ショパンは、ロンドンを十一月二十三日に出発してパリに帰ることになるが、その一週間前のグジマワへの手紙では、頭痛、寒気、発熱、呼吸困難で耐え難く、その鬱憤を誰かを呪うことで晴らせるのなら、ルクレチアを呪いたいとある。ルクレチアとは前述したように、サンドが書いた小説の中の女主人公の名で、ショパンとサンドの生活をモデルにしたのではと噂を呼んだものだ。ショパンにはめずらしく直接的にサンドへの恨みを語ったものだが、サンドとの決別がなかったのなら、自分はこのようにイギリスにまで来て病状を悪化させなかったのに、と言いたいのだろう。
パリに帰るにあたって頼りはグジマワだ。大きな部屋に住みたいけれども経済的なことを考えると、もといたドルレアンのアパルトマンになるだろう。召使のダニエルのための小さな部屋を同じ階に探してほしいと書いた。ベッドから起き上がれないほどの体調だというのに、ド・ロジェールにも急いで手紙を書いた。管理人に、カーテンやベッド、食器棚の隅の埃をはらうこと、薪をたっぷり買って暖炉に火を入れるように言ってほしいとある。二日後、今度はグジマワに、金曜に着いたらすぐにベッドに入りたいと書く。だから枕も夜具も日の光にあて、松かさをたっぷり買っておくこと、カーペットを敷きカーテンを吊るすことを管理人にやらせておいてほしいと頼んだ。もちろんピアノのことも忘れない。自分が帰る前の日、木曜日中に、プレイエルのピアノを入れておいてほしいとある。すみれを一束サロンに挿しておいてほしいとも付け加えた。
ずっと寝ていることになるだろうけれども、寝室に向かう一瞬、その香りを感じて、詩的気分になれるからだという。
十一月のはじめからごとんど寝たきりのショパンだったが、パリへの長旅にはたして耐えられるか、ロンドンの知人たちは心配したが、しかし、ショパンはもう一日たりともロンドンにいたくなかった。金曜日の昼にはパリにいられる、ロンドンはもう一日だけだ。スコットランドの女性たち (スターリングたちのこと) といてもつまらない、死ぬことはないけれど、ここにいるのはもううんざいなんだ、ロンドンから一行も早く逃げ出したいと、グジマワに強く訴えた。
ポーランドの友人ニェジヴィエツキが付き添って列車に乗り込み、ド・ロジェールが待ちかまえるドルレアンの住まいに予定通り翌日の二十四日に到着した。主治医のモラン博士が亡くなったために、次々に評判がいいと言われる博士たちの診察を受けることになった。しかし成果はなく、一回十フランの診察費がかさんでいくばかりだった。
一日のほとんど横になっているほど体調が悪いのに、ショパンはレッスンをしようとしていた。生徒は制限してグートマンやチャルトリスカ公妃といった、ショパンのごく身近な人だけにした。
作曲もレッスンも満足に出来ない。ショパンの気分をやわらげるにはどうしたらいいか、ポトツカ伯爵夫人は見舞いに来てはその美しい声で慰めた。ドラクロワはどこにも行けないショパンの体調を見計らっては、短い散歩に誘った。
サンドはショパンがイギリスから帰ったことは知っていただろうが、もちろん見舞いには来なかった。しかし、ポリーヌにはショパンの具合をたずねていた。それに応えて、1849年の二月、ポリーヌはサンドに、ショパンの身体は徐々に弱ってきて、血を吐き咳の発作に苦しんでいると書いた。ドラクロワと同じく最後まで、サンドがショパンと和解することを望み続けたポリーヌは、さらに言葉を重ねた。 「ショパンがあなたのことを話す様子を見ていると、今もあなたを一番崇拝していて、それは以前とまったく同じだということが、痛いほど伝わってきます」。
春になると、いくぶん体調もよくなって、ッペラに出かけ、新しい ≪マズルカ≫ にとりかかることができた。さらにはサンドと暮らしたころ、サンドからしきりに勧められていたピアノ教則本を書こうとペンを持つようにもなった。
ス タ ー リ ン グ の 援 助
1849年六月には緑豊かなシャイヨに引っ越した。これが可能になったのは、弟子たちの心遣いによる。このころから、なにかと裕福な弟子たちは、師が望み師にふさわしい優雅な生活をその死まで可能に出来るように、覚られて師の自尊心を傷つけないようにと、そっと影で支えることに尽力しだす。
シャイヨの家賃400フランは、弟子のスーツォ公妃の母親オブリェスコフ公妃が半額負担した。
ショパンは生活費にも困りポーランドの母から2000フラン送ってもらったが、すぐになくなってしまった。その様子を見かねてジェーン・スターリングとアースキン夫人は師のために大金を贈ることにした。1849年三月、2万5000フランもの大金を匿名で届けたが、しばらくたってもショパンが受け取った様子がない。調べてみると手違いで、管理人のところに置かれたままになっていた。七月になってショパンの手元に届いたが、スターリングたちからの援助だと知ると、ショパンは素直にもらえなかった。しかし、たしかに金は必要だった。そてを一番分かっていたのはショパン自身なので、1万5000フランだけ借り入れるという名目にして、受け取った。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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