絶
望 の 日 々 | 十月二十一日にグジマワに、
「ここでは芸術というのは絵画、彫刻、建築のことだ。音楽は芸術と考えない・・・・・イギリス人にとって、音楽は職業ではあるが、芸術ではない。だれも音楽家を芸術家と呼ばない」
と書き、貴婦人たちは手を見ながらピアノを弾くのに音をはずす。ショパンの音楽を聴いては 「水のようだ」 と言うが、それがほめ言葉だと勘違いしている、そのようなことばかりだと嘆いた。精神的にも肉体的にも限界だった。十月末の手紙では、日に日に弱っていって、もう希望などないとグジマワに書いた。 起き上がれない状態になることもあったが、あいかわらず貴族や王室からの招待が続いていた。 このころにはスターリングとショパンが結婚するのではとの噂が流れた。グジマワにそのことを問われて、ショパンは自分にはそのようなつもりはまったくないと書く。
「あの未婚女性は自分に似すぎている。自分が自分を抱きしめる、そんなことがどうして出来ようか」 。 ショパンは自分に財力がないkとを痛感していた。自分が望むような愛に出会ったとしても、結婚しないだろう。食べるもの、住むところに困るのに、といったことまで書いている。貧乏は最大の不幸だ。自分は病死するだろうから、後の残された妻を餓死させるようなことは出来ない、と言葉をつなぐ。さらにショパンは自分の命の長さもはかっていた。グジマワに
「花婿のベッドよりも棺桶に近い所に僕はいる」 と書いた。 十月三十一日にロンドンに戻ったショパンは、頭痛、呼吸困難、寒気に襲われて臥せったままとなった。しかし最後の力をふりしぼって十一月十六日、ポーランド難民のためにギルド・ホールで開かれた演奏会に出演した。≪練習曲≫
作品二五から何曲かを、一時間ほども演奏をした。 ショパンは熱にも苦しめられた。なぜ神はいきいに自分を殺さぬのだとグジマワへの手紙で嘆いた。そんなショパンのもとに、スターリングの姉アースキン夫人は聖書を持ってきては信仰の大切さを訴え、死後の世界はすばらしいと説いた。心の中にまで踏み込むそのやり方に、ショパンはほんとうに不愉快になった。もうこれ以上、スターリングやアースキンの世話になるイギリスにいることをやめると決めた。 しかし誰もが、パリ帰還がかなうのかとショパンの容態を危惧していた。エジンバラで再会したマルツェリーナ公妃は、ロンドンでもまたショパンの天使となった。ポーランド語でやさしく話しかけるマルツェリーナにショパンは救われる思いがした。
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