〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/13 (月) 

期待どおりにならない

動乱のない貴族社会であるイギリスやスコットランドに行けば、それなりの収入があると、大いにショパンは期待して、パリを出たに違いない。
四月二十日にロンドンに到着すると間もなく、ドーヴァー街の部屋に落ち着いた。さっそくフランコムに、部屋が大きくて美しいこと、エラール、ブロードウッド社、プレイエルといったピアノ製造業者たちが争うようにピアノを提供してきたことを報告している。新しい生活がいつもどおり優雅に出来そうなことにほっとしているが、息苦しいなど健康状態は決して芳しくなかった。
しかしゆっくりはしていられない。弟子のグートマンに、数え切れぬほどの来訪や招待で、弾きたいのに暇がないと手紙で嘆いている。友人のグジマワには二、三人にレッスンをし、パリから持ってきた紹介状の相手に、午後の一時から二時になると会いに行かなければならないと書いた。
体調もよくないのに、ロンドンでふたたび音楽家としての地固めを早くしなければならないのだ。五月の半ばには、サザランド公爵夫人の招きで、ヴィクトリア女王とアルバート殿下へ御前演奏をして評判を取ることが出来た。しかし宮中で喪に服していたために、優雅な招待を引き続き受けるチャンスに恵まれなかった。フィルハーモニック協会から共演の申し出はあったが、リハーサルが公開で、曲目にはメンデルスゾーンが望まれそうだということなので、気分が乗らずに断ってしまった。
不案内な土地に来たのだからと名刺を配って歩くことも大切な仕事だ。そのためにスターリングたちと共に馬車に三時間も四時間も揺られていることになる。体調が悪いショパンにとって、これはほんとうに辛かった。
しかし、グジマワへの手紙にはこの状況への冷静な判断も示している。ポーランドでの二十年ほどと、パリでの十七年とを考えるとロンドンですぐにうまくいくはずはない。そうは書きながらも、新しい環境になじめないこと、多くの人に紹介されても、それが誰だかなかなか見分けられない、なにしろ英語が出来ないのだからと嘆いていた。
20ギニー支払われた夜会は二度あっただけだと書いている。レッスンは一人一回1ギニー (25フラン相当) とある。夜会での謝礼20ギニー、これはショパンが定めたものではなく、ショパンにピアノを提供しているピアノ製造業者のブロードウッド社が決めたものだ。ところが、ロンドンの貴族たちは、これを高いと思ったらしい。パリで親しく交際したショパンの弟子でもあるロスチャイルド一族はロンドンでも隆盛を誇っていたが、その中の老婦人から20ギニーは高額だから、もう少し安くした方がいいと忠告までされたという。
貴族の大邸宅での演奏会が出来れば150ギニーになるのだが、というショパンの願いがかなった。それは、六月二十三日のことで、場所はアデレイド・サートリス夫人のサロンだった。聴衆は150人、チケット代は1ギニーで、切符は売り切れたという。この時の共演者は、イタリアの有名なテノール歌手ジョヴァンニン・マリオだった。ショパンは ≪アンダンテ・スピナート≫ と ≪バラード≫ 第二番などを演奏した。第二回の演奏会は七月七日ファルマス伯爵邸で行われ、友人の歌姫ポリーヌ・ヴィアルドが共演することになって、ショパンはほとしたようだ。
七月にショパンがグジマワに宛てた手紙では、家賃や馬車代に200ギニー (5000フラン) もかかり、残った金では六ヶ月も暮らせるかどうかわからない、と不安を隠さない。毎晩のように社交界に招かれてずいぶん知り合いも増えたけれども、音楽シーズンは終わるのでロンドンにいても仕方がないと考え出している。弟子たちからの収入も一定しないことがショパンの悩みだった。九回もレッスンを受けながら払わないでロンドンを離れてしまう者、一週間に二回の約束なのに一回しか来ない者、一週間だけ五回レッスンをレッスンを依頼してくる者といったように、身勝手な判断をする弟子たちに戸惑いを隠せなかった。上品で丁寧なパリの貴族たちと長年付き合ってきたショパンには、ロンドンのやり方は理解できなかった。
スターリングたちは、ショパンをスコットランドにいる自分の一族たちのもとへ誘った。しかし 「目下のところ、何かしたいという気になれない。うんざりしないものなど、イギリスにあるのだろうか」 と、グジマワへ嘆きの言葉を投げかけた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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