1848年二月十六日に、ショパンはプレイエル・ホールで演奏会を行った。三百枚の切符は一枚20フランという高値にもかかわらず売切れてしまった。曲目はフランコムのチェロとの共演による
≪チェロ・ソナタ≫ が中心だ。 演奏会が終わるとショパンは疲れ果ててベッドに臥せった。 第二回も予定されたが、ショパンにそのつもりはなかった。さらに二月革命が起こってデモ隊は警官隊と衝突し、国王ルイ・フィリップのイギリス亡命といった騒ぎで、劇場は閉鎖され、音楽界はあちこちで中止になった。ソランジュに書いた手紙によると、革命のあと、暴動が起こったが、二週間たってパリは奇妙に静かで、店は空いているが客はいないとある。それは貴族たちがパリにいたとしても、暴徒に襲われることを恐れて、屋敷の中で息をひそめているということで、以前のような華やかで活気にあふれた社交界の再開はまなだ先になりそうだということだ。 そんな時、ショパンは弟子のジェーン・スターリングがもちだしたロンドン行きの勧めを受けてみようと考えるようになった。西インド諸島での事業に成功した大金持ちの銀行家を父に持つジェーン・スターリングは、スコットランド出身だった。サンドと同じく1804年生まれで、ショパンの弟子になったのは、1844年のころと思われる。かなりのピアノの名手で、ショパンから作品五五の二つの
≪ノクターン≫ を献呈されている。そんなジェーンとのロンドン行きを、ショパンは決めた。 |