〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/13 (月) 

ジェーン・スターリングの誘い

1848年二月十六日に、ショパンはプレイエル・ホールで演奏会を行った。三百枚の切符は一枚20フランという高値にもかかわらず売切れてしまった。曲目はフランコムのチェロとの共演による ≪チェロ・ソナタ≫ が中心だ。
演奏会が終わるとショパンは疲れ果ててベッドに臥せった。
第二回も予定されたが、ショパンにそのつもりはなかった。さらに二月革命が起こってデモ隊は警官隊と衝突し、国王ルイ・フィリップのイギリス亡命といった騒ぎで、劇場は閉鎖され、音楽界はあちこちで中止になった。ソランジュに書いた手紙によると、革命のあと、暴動が起こったが、二週間たってパリは奇妙に静かで、店は空いているが客はいないとある。それは貴族たちがパリにいたとしても、暴徒に襲われることを恐れて、屋敷の中で息をひそめているということで、以前のような華やかで活気にあふれた社交界の再開はまなだ先になりそうだということだ。
そんな時、ショパンは弟子のジェーン・スターリングがもちだしたロンドン行きの勧めを受けてみようと考えるようになった。西インド諸島での事業に成功した大金持ちの銀行家を父に持つジェーン・スターリングは、スコットランド出身だった。サンドと同じく1804年生まれで、ショパンの弟子になったのは、1844年のころと思われる。かなりのピアノの名手で、ショパンから作品五五の二つの ≪ノクターン≫ を献呈されている。そんなジェーンとのロンドン行きを、ショパンは決めた。

ロンドン到着
ショパンはパリ滞在の十八年間、公開の席、ホールと名がつく所での演奏会を数えるほどしかしなかった。1832年にプレイエル・ホールでデビュー・コンサートをしたショパンは、1848年前述のように、新しく作られたプレイエル・ホールでお別れコンサートをした。この間十六年、ホールと呼ばれるに値する所で演奏会をしたのは十数回だ。
そんなショパンが晩年、結核が悪化して、動くのに苦痛を感じ階段を一人で上れないほどの息切れすることもあるというのに、演奏家としてイギリスに渡り、五ヶ月の滞在で演奏会を六回もすることになる。
死への旅立ちを早めるかのようなこの旅行を、パリの友人たちはひどく心配したが、経済的に余裕のないショパンにはほかに選択肢はなかった。ロンドンからエジンバラまでと長距離にわたるこの旅行は、しかし幸いなことにスターリングの財力と知己で、みずぼらしいものとはならなかった。スターリング嬢やその姉のアースキン夫人はショパンにパリと同じような快適な生活を用意した。朝のチョコレートも乗り込む馬車も、行く先となる貴族の屋敷も、どれもショパンにふさわしいものだった。
しかし、スターリング嬢やアーキストン夫人は、サンドのようにショパンが望んでいることを汲み取った行動は出来ない。ショパンに必要だったのは、気兼ねのない休息を背景にした優雅な日々だった。ノアンの館でのような心豊かな時間と、パリのように貴婦人たちへのレッスンと音楽を心から愛する人々が集うサロンでの演奏だった。
二人がもしそのことを理解していたとしても、場所はロンドンだ。ショパンの名は知られてはいたが、パリと同じような生活や音楽活動を急に始めることは出来なかった。ショパンが望むのは、レッシンと貴族のサロンでの演奏で収入を得ることだということを、スターリングはよく分かっていた。だからショパンの希望を出来るだけかなえようと、先導するかのように知己のある一族の大金持ちたちの所に連れ歩くことにしたのだろう。
ショパンはパリで、年間に一万六千フランほどの収入があった。労働者階級の一家四人がどうにか暮らしていくのに、千フランほどだった時代である。ショパンはいつも優雅に暮らすことを身上としていたので、使用人を置き、花々を部屋に飾り、洒落た家具をそろえ、細心の注意を払って洗練された服装を身に付けた。だから、どれほど収入があっても足りなかったようで、死後残されたものはスタールングから贈られた金の残るだけだった。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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