ショパンが一人でパリに暮らし、サンドが
『ルクレチア・フロリアニ』 を書いたことを知る人たちは二人の関係に大きな変化があらわれることを予感し、リストはマリーに二人の別れは決定的だろうかとたずねた。ちょうどそのころ、サンドがパリに到着した。 二月のはじめ、ショパンは体調を崩したが、十七日にはグジマワをその晩の内輪の演奏会に招くほど回復した。フランコムと
≪チェロ・シマタ≫ を演奏するつもりで、そこにはもちろんサンドの姿もあった。ショパンがワルシャワの家族に宛てた手紙では夏またノアンに帰るので、それまでレッスンに励むつもりだとある。この手紙にはソランジュが予定していた結婚をのばしたこと、彫刻家クレザンジェがの作品が出典され展覧会に行ったが才能を感じたこと、そのクレザンジェがサンドとシランジュの胸像を作るらしいとある。 四月になると穀物の出来が心配だからとサンドはノアンに急いで帰って行った。ショパンは一日に七人レッスンするなど仕事に励んでいたが、サンドから五月の末にはパリに行くからそれまで待っていてほしいという手紙を受け取った。 |