〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/08 (水) 

父ミコワイの死
1844年がショパンと過ごした最後の平和な年だった、とサンドは回想してる。しかしこの年、ショパンはもっとも敬愛する父の訃報を受け取った。
前年の1843年十月半ば過ぎ、寒すぎるノアンの冬を避けて、ショパンはひと足早くパリに向かいレッスンの日々を再開した。体調はけっして良くなく、とうとうインフルエンザにまでかかってしまうが、ショパンより一ヶ月遅れでパリに来たサンドの手厚い看護で、また徐々に回復して周囲の人々をほっとさせた。1844年五月にはソフォクレスの 『アンティゴーネ』 をサンドとともに楽しむことも出来るほどに元気になり、創作への意欲も出はじめた。このころまでサンドにとって一番大切なのはショパンの健康で、だから 「最後の平和な年」 だったというのだろう。
五月三日父ミコワイが死んだという知らせが届くと、打ちのめされたショパンのためにサンドは奔走した。パリにいる友人たちに、どうにかしてショパンを慰めてほしいと頼み、ずっと疎遠になっていたリストにすら、ショパンの窮状を訴えて助けを乞うた。
ノアンに帰って休養させたい、サンドは心から願ってショパンのかたわらを離れようとしなかった。やっと馬車に乗れるようになった五月末、ノアンに向けて出発することにした。その前に、サンドはショパンの母ユスティナに向かってはじめてペンを取った。夫の死で失意の底にあるユスティナへ心からの慰めの言葉と、そのユスティナがショパンを想う気持への深い共感を示した手紙だ。サンドはユスティナに代わって、ショパンのことを息子のように大切にし、自分の生涯をかけて愛し続けると書いた。
この手紙によって、ワルシャワの家族とサンドの距離は一気に縮まった。父ミコワイが生きていたころ、ショパンとサンドのことを家族たちは黙認しているといった様子だった。息子のことを大切にはしてくれているようだけれども、はたして息子の恋人として認めていいかどうかといった迷いが、手紙の表現に見て取れた。
しかし、サンドの手紙とその「内容が、ユスティナの心を大きく動かした。ユスティナはサンドの誠意と温かさに満ちた手紙に早速返事を書いた。病弱で神経質なショパンにとって、父の死がどれほどの痛手になったかと想うと不安で仕方なかったこと。でもサンドの情感こもった手紙を受け取って安堵の気持になれたこと。母親のようにいたわりの心で包み込んでくれるサンドに、感謝し敬意を表したい、そしてどうかショパンを守る天使でいらして下さいと、遠く離れた母は願いを込めて書いた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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