〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/06 (月) 

1842年 ファランステール主義的住まい方
フィルチの兄が知的で親切、魅力的な夫人と描写するサンドは、精神的に大きな打撃を受けたショパンを連れて五月六日ノアンに帰った。六月に親友のドラクロワがやって来たので、ショパンにやっと笑顔が戻った。ドラクロワはノアンの生活を満喫して、その様子をパリの友人に書いた。サンドは生活を快適にする術を知っている。玉突き、散歩、それぞれの部屋で読書、開け放された窓からショパンの音楽が聞こえて来る。ナイチンゲールの声もバラの香りも。ショパンは傑出した最高の芸術家で、二人で話していると尽きることがないとある。
ドラクロアが七月のはじめに帰ると、こんどはポーランドの詩人ヴィトフィツキが来た。ヴィトフィツキはショパンに、スラヴという巨大な宝庫、そこにある祖国のメロディを大切にして、ポーランドの国民的作曲家としてマズルカを作りつづけてほしいと、その強い願いを口にした。ヴィトフィツキを尊敬するショパンは、二年前に出版した ≪四つのマズルカ≫ 作品四一を献呈していた。
九月二十八日にパリに戻ると、スクワール・ドレルアンに決めておいた新しい住まいに向かった。周囲にはヴィアルド夫妻やカルクブレンナーなど、多くの芸術家が住んでいた。サンドは五番地、ショパンは九番地、そしてこのころサンドがもっとも仲良くしていたマルリアーニ夫妻は七番地に住んで、ある意味の共同生活を実践することにした。サンドが理想とするのは、 「ファランステール主義」 と呼ばれる同時代の社会主義者フーリエが提唱したものに基づいて、男女平等でそれぞれが情熱に従って仕事に励み、調和のある日々を送りたいというものだ。
ショパンとサンド家とマルニアーニ家が費用を出し合い、サンドの料理人がマルリアーニ家で調理をしてみんなで食卓を囲んだ。
このころポーランドの父ミコワイから手紙が来た。ノアンの館での心地よい夏の日々がショパンに健康を快復させたことを喜びながら、パリで新しい部屋に移ったのは、サンドから離れて一人になりたかったからだろうかと推測している。ショパンはサンドと自分の関係を家族にあまりはっきりと伝えたことはなかった。そのため、ポーランドの家族たちはショパンの手紙の内容から、サンドとの日々を想像するだけだった。ドルレアンでの活気ある新しい生活形態についても、ショパンは知らせていないようだ。
十一月二十八日にショパンの部屋で、ショパンとフィルチが ≪ピアノ協奏曲≫ ホ短調を演奏した。そこに招待されていたのは、伯爵夫妻、大使たち、貴族令嬢たち、ロスチャイルドなど男爵夫妻たち、作曲家のマイアベーアという錚々たるメンバーだったと、フィルチの兄ヨーゼフは興奮気味に両親への手紙に書いた。演奏会の後はサンド家で食事、その後さらにポーランド亡命貴族たちの夜会にショパンに連れられて行ったとある。
これほど活躍するショパンに対しても、父はいつも助言を忘れることはなかった。音楽を愛好する貴族たちの中心にいて、ショパンがポーランド亡命者たちの誇りとなっていることはワルシャワへも十分に伝わって来ていた。そんなショパンに父は、リストとの関係も大切にしているようで安心していると書いてきた。ショパンが、リストに音楽家として共鳴できないものを感じていることを父は知っていて、そのことをとても心配していたからだ。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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