〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/07 (火) 

1843年 ノアンの夏とパリ
ところで、ショパンは作曲によってどれほどの収入を得ていたのだろうか。ブライトコプフ・ウント・ヘンテル社の版権について書いている興味深い手紙がある。≪スケルツォ≫ 作品五四を600フラン、≪ポロネーズ≫ 作品五三を500フランで売るという。それぞれ三ヶ所三社で出版したのだから、一作品について1500フランから1800フランだ。一晩演奏すれば、1842年を例に考えると5000フランから6000フランということになる。レッシン収入は一日に五人の弟子を教えることもあって、一人20フランだった。
演奏会をすれば短時間で充分の収入が得られるがわかってはいても、1842年のプレイエルホールからサンドと別れてイギリス旅行に行くことにする1848年まで、ショパンは演奏会を決して開こうとはしなかった。演奏会を極度に恐れていたことはよく知られているが、健康が下降線をたどったことで、ショパンはさらに消極的になった。
1843年はノアンに帰って来ても、散歩に行くだけで疲れを感じるようになった。七月にドラクロワが来たことでいくらか元気になったが、二週間ほどして帰ってしまうと、また元気をなくした。そこに俳優ピエール・ボガージュが来たことで、ショパンはすっかりふさきこんだ。ボカージュはサンドのかつての恋人だったので、ショパンは嫉妬して気分を悪くし、部屋に閉じこもった。
サンドはこのようなショパンと暮らすことに戸惑いも感じるようになっていた。演奏会のことからノアンに来る人たちへの過剰とも思われる反応まで、何事につけショパンが示す神経質な様子はサンドにとって心地よいものではなかった。
しかしそうはいっても、ショパンが秋になって先にパリへ帰ることになると、サンドは気配りを忘れなかった。ドルレアンに住むマルリアーニ夫人には、八時からレッスンが目白押しのショパンにかならずチョコレートかコンソメを飲ませてほしい、ド・ロジェール嬢には昼をきちんと食べているか見に行ってほしいと頼み、」まるで病弱な息子をパリに送り出す母親のようだ。
実際、二人はもう恋人というよりも、母親と過保護な母に庇護されている息子といった様子になっていた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ