〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/06 (月) 

1841年 ノアンの夏とパリの冬

ショパンは、演奏会の収入で6000フランほどを手にするとほっとし、1841年六月十六日からノアンで二度目の夏を迎えることにした。サンドはシャルロット・マルリアーニやドラクロワなどに招待状を送ったが、マリー・ダグーやリストを呼ぶつもりはなかった。
ポリーヌが夫と共に到着したころに、プレイエルから新しいピアノが届いた。ポリーヌはショパンと共にグルック、ハイドン、ヘンデル、モーツアルトを演奏し、村の祭りでベリー地方の民族音楽ブレを楽しんだ。
ノアンにいても、ショパンはパリと同じように身だしなみを整えることを忘れなかった。あいかわらずすべての窓口はフォンタナで、スウェードの皮の手袋、頭を掻くための象牙で出来た小さな手、香水石鹸など、日常に必要なものを送ってくれるようにと手紙を出した。もちろん楽譜出版社との交渉についても忘れない。 ≪タランテラ≫ をロッシニーと同じ拍子で書き写してほしいこと、繰り返しはいらないこと、作品番号を指示し、出版社からの支払い受け取りを確認することも頼んでいる。この夏は、 ≪ポロネーズ≫ 嬰ヘ短調・作品四四、≪バラード≫ 第三番、≪幻想曲≫ ヘ短調、≪前奏曲≫ 嬰ハ短調、≪ノクターン≫ 作品四八を仕上げて、十一月三日にパリに戻った。
この年 (1841年) からショパンは、ピガール街にあるサンドの家の離れを住まいにした。十二月三日には御前演奏をし、翌年の二月二十一日には前年と同じくプレイエルホールで演奏会を開き、フランコムがチェロを演奏し、ポリーヌがヘンデルの小品を歌った。ショパンは ≪アンダンテ・スアピナード≫ ≪マズルカ≫ 作品四一、≪バラード≫ 第三番、≪即興曲≫ 嬰ヘ長調などを演奏し、大成功だった。
≪バラード≫ 第三番は、前年から作曲にとりかかって1841年に完成されたものだが、この作品はミツキヴィチの詩 『水の精』 に影響されているといわれている。この冬、ショパンとサンドはミツキェヴィチがコレージュ・ド・フランスで開いたスラヴ文学講座に出席していた。

天才少年カルル・フィルチ
このころ、ショパンのもとにたいへんな天才少年がレッスンを乞うて来た。カルル・フィルチという十一歳の少年で、自分の解釈以外のものもなかなか受け入れないショパンが、フィルチの演奏するピアノ協奏曲には感嘆するばかりだった。
フィルチの兄ヨーゼフがハンガリーの両親に宛てた手紙は、フィルチの才能をいかにショパンが認め、その一方で才能のある弟子を得たとき、ショパンが指導者としていかにその力量を発揮するかを明らかにしてくれる。
ヨーゼフはフィルチがショパンの弟子になれたことは、その才能にとって幸いだったと書く。
ショパンの演奏は聴く者の目に涙を浮かばせ、感激にうち震えさせる、左手のテンポはあくまでも正確で、右手に自由が与えられている。指が柔らかく敏捷でまるで魔法にかかっているようで、ピアニシモもクレッシェンドもとても効果的で、ペダルが微妙なニュアンスをさらに加えるとある。その音楽は高貴な詩人のようで表情豊か、その指導はほんとうに辛抱強く誠実だとヨーゼフは書いた。
このような若い稀有な才能との出会いの喜びに隣り合わせるように、大きな悲しみがショパンを次々に襲った。二月のプレイエルホールでの演奏会の日、ポーランドでは幼い頃のピアノ教師ジヴニーが死んだと、しばらくして届いた父の手紙に書かれていた。三月にはショパンがパリで一緒に暮らしたこともあるポーランドの大切な友ヤン・マトゥシンスキの結核が悪化した。ショパンは懸命に看病したが、四月二十日ショパンの腕に中で息を引き取った。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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