〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/05 (日) 

プレイエル・ホールでの演奏会

トロンシュ街の住まいからサンドたちがいるピガール街まで1キロほどをショパンは馬車で通って来た。サンドの家は中庭と離れもあって広く、サロンにはノアンからの客も多く、ドラクロアやマルニアーニ夫妻は常連だった。そこにハイネやバルザックも加わり、同じピガール街に住む、ショパンが尊敬するポーランドの詩人ヴィットフィツキも大歓迎されていた。
若く才能にあふれたポリーヌ・ヴィアルドは夫と共に来た。歌姫として稀有な才能でたいへんな人気を誇り、しかし温かく真面目な人柄のポリーヌのことを、サンドもショパンもたいせつな宝のように思っていた。自分の作品を編曲されることをショパンは誰にも許そうとしないのに、ポリーヌだけは特別だった。マルズカを編曲してポリーヌが歌うというと、その伴奏を買って出るほど、その才能と人柄を愛していた。
1841年、サンドはロンドンにいるポリーヌに興奮した様子で、ショパンがとうとう演奏会をすることになったと書いている。 「びっくり仰天の大ニュースです。シップ、シップ (サンドがショパンにつけた愛称のひとつ) が大演奏会を開きます」 さらに演奏会の予告が公表されないうちに、切符の四分の三が売れてしまったとショパンの演奏が心待ちにされている様子を、誇らしげに勢いよく書いている。
しかし実際のところは、ショパンは公衆の前で演奏するのを苦手だと強く感じていた。どうしても、とあまり言われるために、とうとう観念したかのようにうなずいたが、何か理由があればいつでも取り止めにしたい心境だったようだ。この時代の演奏会では、賛助出演が付きものだったので、ショパンはポリーヌにそれを頼みたいと考えていた。しかし、ロンドンで公演中のポリーヌのスケジュールとは合わなかった。出来れば日時を変更したいと考えたが、もう公演日の直前だったため変更は不可能で、覚悟を決めて舞台に立つことにした。
1841年四月二十六日、ホールお客席は埋め尽くされた。ドラクロワ、ベルリオーズ、カルクブレンナー、ミツキェヴィッチ、ハイネ、リストなどやショパンを知る貴族たちがぞくぞくとつめかけた。≪バラード≫ ヘ長調、≪スケルツォ≫ 嬰ハ短調、≪ポロネーズ≫ イ長調などを演奏し、当時の慣例どおり共演者がいて、ヴァイオリニストのハインリッヒ・エルンストと二重奏をし、ロール・ダモロー=サンティがアリアを歌った。
サンドはショパンが緊張している様子を、ユーモラスにポリーヌに書いている。 「彼はポスターもプログラムも作りません。多くの人に知られたくないのです。演奏会を話題にしてほしくないのです。あまりにも不安そうな様子なので、蝋燭もともさずにお客さんも入れずに、音のしないピアノにしたらと。私は提案しています」。
チケット代は20フラン、あるいは15フランで、これはショパンのレッスン料と同じだと考えるとかなり高額なことがわかる。300人収容のホールの四分の三が、すぐに売り切れてしまった。ショパンの演奏を待ち望んでいた人がいかに多く、その人たちがいかに恵まれた経済状態にあるかを示していることになる。
聴衆の一人で、ショパンに何くれと過度な心遣いを示すド・キュスティーヌ侯爵は、演奏会後、興奮さめやらぬ様子でショパンに手紙を書いてきた。 「あなたはピアノだけを演奏したのではない、人の魂を演奏していた (・・・・・) あなたの魅力的なエレガンスは、パリの真の音楽愛好家と洗練された人々を引きつけました」。
演奏会は大成功で 『ガゼット・ミュジカル』 にリストが絶賛する批評を載せた。これはまたもや愛人のマリー・ダグー伯爵夫人がゴースト・ライターをつとめているのだが、しかし、ここころにはマリーとサンドはすっかり仲たがいをしている。というのは、マリーが二人の共通の友人シャルロット・マルリアーニにサンドを非難した手紙を送ったからだ。サンドもマリーも個性が強く、愛人とする音楽家はそれぞれパリの音楽界を率いる人物だった。サンド側にそのつもりはなかったが、マリーはなにかにつけて競争心をあからさまにした。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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