〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/05 (日) 

一年ぶりのパリ

サンドはパリでショパンと一緒に住むつもりだったが、ショパンは一人暮らしをすることにしていた。それは日々の生活のリズムも違い、ノアンのように広い家を借りることは出来ないので、子供連れのサンドと、レスンや社交に明け暮れる自分とは別々の方が便宜上いいと考えたのだろう。ショパンはマドレーヌ寺院裏のトロンシュ街に、サンドはピガール街十六番に住むことになった。
ショパンの音楽に感じられるものが完璧な美と形容できるとすれば、生活ぶりもそれに近いものを求めていた。洗練、上品、優雅、音楽の求めるのと同様の完璧さが、住まいに対する考え方に求められている。フォンタナンにこまごまと頼みごとを書き連ねた。壁紙は前にいた部屋と同じように光沢のあるものを、その縁取りにはつやのあるダークグリーンがいい。玄関の壁紙にはほかの色で上品なものを。家具も選んで据え付けておいてほしい。前から使っていたベッドと机は修理に出してきれいにしてもらいた、召使はポーランド人を、給料は月額80フランデ。君はなんでも頼みごとを聞いてくれるからと、フォンタナにすっかり頼りきった様子が手紙にうかがえる。
十月にはパリに間もなく帰るからと、フォンタナに帽子と洋服の注文を依頼した。帽子屋デュポンで今年流行になるようなものを作るように言ってくれ、洋服屋ドートルモンでグレーのズボンを、ただし冬のものなので縞はなくぴったりとしたものを。グレーの色は品のいいものを。真っ黒のビロードのチョッキも頼んでほしい。仕立て代は80フラン以下のはずと、つねにショパンは細心の注意をフォンタナに求めた。
ショパンは一年近く離れてしまったパリで、元どおりにレッスンと社交の日々を一刻も早く始めたかった。気がせいているのが、フォンタナにたたみかけるように次々に頼みごとを書いていることからよくわかる。
出発寸前までペンを手のしていたサンドは、十月十日五時ごろショパンと共に馬車に乗り込んだ。子供たち二人とたくさんの荷物を乗せたベルリン型馬車が、ノアンを守る使用人たちに見送られて出発した。
この後1846年まで、ショパンとサンドは、夏はノアン、冬はパリという規則正しい生活がはじまるが、1840年は例外的にノアンには戻らない。二人とも旅で余裕がなくなったからだ。
さらにサンドはノアンの生活に4000フランほどかかるので、文学者として小説を発表するほか、舞台の脚本家としての成功に野心を燃やしていた。その意気込みで作られた 『コジマ』 上演が失敗し、七回で打ち切りとなり、借金を増やしてしまったからだ。
ショパンはその帰りを待ち望んでいた貴族たちに、大歓迎されてほっとした。ロスチャイルド一家などパリノ貴族たちは、久しく聴くことが出来なかったショパンの演奏を堪能し、ド・キュスティーヌ侯爵からは感動のあまり自分の情熱的な思いを語らないうちは眠れないのでペンをとった、と称賛の手紙が送られて来た。
ショパンはこれまで仕上げた作品の出版の成果を確認するなど、しばらくパリで落ち着いて活動したいと考えた。ライプチッヒのブライトコプフ・ヘンテル社とも交渉をはじめ、楽譜出版社との関係も広がった。
かつてショパンを教えたエルスネルから手紙が来たのはこのころだ。オアラトリオ ≪わららが主の受難≫ の出版をどこか引き受けてくれないものだろうか、というものだ。ショパンは恩師の頼みなので、出来るだけのことはした。しかし結局、楽譜出版社は採算が期待できない宗教音楽には興味を示さないと、丁重に返事を書くこととなった。ショパンの手紙からは、ドイツやイギリスで上演を好まれるオラトリオがパリでは見向きのされないという、興味深い当時の音楽事情が明らかとなる。パリでは娯楽性の強いオペラがひときわ人気の的だった。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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