〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/03/03 (金) 

ノアンのショパン
1839年五月二十二日にはマルセイユを発って、六月一日ベリー地方ノアンに到着した。サンドはパリに向かうつもりなどまったくなかった。二人を待ち受ける人たちがたくさんいて、それだけでもわずらわしいのに、日に日に暑くなるパリに行く理由などない。
ノアンの館にいる使用人の、だれ一人としてショパンに好奇の目を向けるものはいなかった。
それはサンドの恋愛に慣れているというよりも、サンドに信頼を寄せている人たちの集まりであるために、サンドの様子からショパンがとても大切な客でであることをすぐに感じ取ったからだ。ショパンに用意されたのは二階の日当たりにいい部屋で、到着の翌日ショパンはグジマワにさっそく手紙を書いた。田舎はすばらしいとノアンをまず称賛し、ここにはナイチンゲールもひばりもいるのに、君はいない。新鮮な牛乳と薬も用意しておくから、ぜひ来て下さいと楽しげな様子だ。
でも一ヶ月ほどたつと、やはり退屈してきた。グジマワに、ショパンは 「サンドが寂しそうだから」 と書き、サンドは 「ノアンはやはりショパンにとって短調で孤独」 だから来てほしいと書き添えた。グジマワは八月になってやっと来た。ショパンはワルシャワの日々に戻ったかのように、たえずグジマワとポーランド語で話しては楽しそうに笑いあっていた。
パリにいる友人フォンタナは、ショパンの秘書役として大活躍だった。≪ソナタ≫ 第二番変ロ短調、≪即興曲≫ 第二番嬰ヘ長調、≪ノクターン≫ ト長調、≪スケルツオ≫ 第三番嬰ハ短調、≪マズルカ≫ 嬰ハ短調、ロ長調、変イ長調 を次々と完成させて、フォンタナに楽譜出版社と交渉してほしいと書いた。作曲に使ったピアノはプレイエル社製で、ノアンに着く前にサンドがあらかじめ頼んでおいたおのだった。しかし、ショパンの思惑どおりに出版社が動くことは少なかった。プレイエルからは出版で損害を与えられ、ユダヤ人シュレザンジェのやり方は気分が悪いと、フォンタナに苦言も書いた。
ショパンの様子をサンドはそっと見守っていた。ショパンは心の抱く旋律を作品にするために、知性で才能を制御し均整ある形式を作るとサンドは言う。しかし曲が完成するまでの苦悩もサンドに伝わって来る。部屋の中を歩きまわりペンをダメにするほど何度も書き直す、そのショパンの様子を心配しては散歩に連れ出し、釣りや植物採集にも誘った。しかし、ショパンは疲れやすく虫に刺されやすく、暑さを嫌った。だから一人屋敷に残ることも多かった。
いずれにしても、いつまでもノアンにいるわけにはいかなかった。一年留守にしたパリの様子がとても気になってきたので、住まいの手配をフォンタナに依頼した。フォンタナはあたかもショパンのマネージャーのように、生活から仕事にいたる雑事をなんでも引き受けた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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