1838年十一月七日夕刻五時、小さな蒸気船でバルセロナを出発したショパンとサンドの一行は、翌日の昼近く巨大な大聖堂が港で威容を誇るマヨルカ島、パルマに入港した。 「一日中太陽は輝いている。にんな夏の服装だ」
とショパンはフォンタナに書いた。二週間前パリで寒さに震えたことを考えると、別天地にいる思いだったのだろう。パルマの町の美しさも二人を魅了した。 しかし、その喜びもつかの間だった。宿泊先がなかなか見つからないのだ、豊かな産物と、もてなし好きの人たちばかりだからと、口を揃えてこの旅を勧めたパリの友人たちが、スペインの事情をよく知っているはずなのに、彼らが思っている通りのマヨルカ島ではなかったのだ。 二十名の名士たちへの紹介状を持参しなければならなかったこと、いつ到着するかあらかじめ知らせておくべきだったこと、それも何ヶ月も前にすべきだったこと、その条件を満たしてはじめてパルマに来るべきだったということを、到着してから知ることとなった。 どうにか宿泊先を確保したが、風紀が悪い界隈で、家具さえろくにない小さな二部屋だった。板のような粗末なベッドにはノミがいて、胡椒やニンニクたっぷりのスープにサソリが入っていた。文句を口にしたら、フランスに帰ればいいと言われるだけだった。 これほどの状況なのは、島がスペインの内戦から逃げて来た人たちの避難所になっていたからだ。家具を新しくするとか、家を立て替えるといった余裕が島の経済状況では不可能になっていて、生活を楽しむことを忘れてしまった島の人々は、何事にも無関心で無気力になっていた。 サンドとショパンがここですぐに学んだ言葉は
「ムーチャ・カルマ」 で、その意味は 「のんびりと」 ということだ。辛抱強く待つしかないということだ。フランスでの常識など、この島には通用しなかった。 この島では引っ越しに必要なものがなかった。扉、窓枠、錠前などの留め金具はすべて自分で用意しなければならないのだ。そのための職人を待てばどれほぞ時間がかかるか分からない。そのことに文句を言おうものなら、フランスから送ってもらってはどうかなどと平然と言われる。しかももしそれが可能だとしても、法外な税関が待っていた。結局のところフランスに帰るしかないのだろうかと問えば、それが一番賢いだろうと言われるのがおちだった。 二人は到着早々、旅先を間違えたことを痛感したとはいえ、この島の温暖な気候はほんとうに有り難かった。だからなんとか、最初の頃は
「ムーチャ・カルマ」 と辛抱することが出来たのだろう。 |