〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/26 (日) 

温暖の地へ

二人は1838年の冬、パリを離れて旅をすることにした。
冬のパリは暖房に使う石炭から出る煙でひじょうに空気が汚れていた。それを避けるには暖房施設が不十分なノアンにいることになるのだが、サンドは息子のためにも温暖な地で冬を過ごしたかった。咳き込みがちのショパンも医者から、体調を快復させるためには温かい地へ行って転地療法をすることを勧められていた。
二人は最初、行き先をイタリアにと考えたが、共通の親しい友人であるマルニアーニ夫妻も、ショパンと同行することとなる有名なスペインの政治家メンディサバルもマヨルカ島がいいと譲らなかった。
その地を知る人が勧めるのだからと、サンドもショパンもはるか遠い所だという意識をあまり持つこともなく、旅の成果を期待するばかりとなった。
サンドは、どうして旅に出たのだろうと、帰国後三年経って発表した 『マヨルカの一冬』 で自問している。そこには 「旅がしたかったからだ」 とある。金もかかり、疲れるし、危険にも出会うのに、そして数え切れないほどの幻滅を味わうのに、どうして旅に出るのだろう。何度、旅に出ても、結局のところ期待が満たされることはないのに、でもやはり出発してしまう、と書く。そしてこのマヨルカ島への旅の最大の理由は、休息したかったからで、仕事からも訪問者からも義務的な礼儀作法からも解放されて、部屋着のままでいられる、そんな生活に憧れたからとも書いている。
しかし、サンドが考えたとおり、この旅でも期待は大きく裏切られることになる。
サンドは長男モーリスと長女ソランジュ、それに下女とトランク三個などの荷物と共に、十月十八日にパリを出発した。ショパンは数日遅れで、マドリッドを目指すスペインの政治家メンディサバルと共に出発した。サンドがショパンと待ち合わせをしたスペイン国境近くの街ペルピニャンに到着したのは、三十日だ。翌日にはショパンはサンド一行に合流し、南下して国境の港町ポール・ヴァンドルで乗船しバルセロナを目指した。
十一月一日、城壁で囲まれたバルセロナの街に入ると、マンティーラ (スペインで女性がかぶる絹またはレースの布) を頭にかぶった女性たちの艶かしい美しさに目を奪われた。葉巻をくわえてイタリア・オペラを語り合う男たちの様子に、この地が政治的に不穏な状況にあることを忘れさせたと、サンドは著書に書いている。
しかし真夜中になると、夜警団が街を巡回し、歩哨が叫び声を上げ、銃声が聞こえてきた。そんな状況なのに、なぜショパンとサンドはマヨルカ島に渡ることを躊躇しなかったのかと、不思議に思えるが、目的地を前にして、二人は迷うことはなかった。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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