〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/26 (日) 

ドラクロワが描いた二人
その手紙から間もない1838年の六月に、サンドの望みがかなった。サンドが親しい友人シャルロット・マルリアーニ伯爵夫人宅に滞在した間のことだ。マルリアーニ伯爵はパリのスペイン領事をしていて、フランス人の夫人シャルロットはこのころ、サンドのもっとも親しい友人だった。サンドは自分の到着を知らせないでショパンを驚かせようとしたが、ショパンはマルニアーニから聞いて知っていること、毎日その到着を心待ちにしていたと手紙に書いて、サンドを喜ばせた。サンドを知れば知るほど魅力的で、母のような温かさが心地よく、異国に暮らすショパンにとっては救いとなった。音楽を理解し絵を描き、文学をその生活の糧とするサンドは、ロマン主義の申し子のように情熱的で行動的だが、恋においては時に母のような慈愛で相手を包み込んでいた。
この頃の様子を二人の親友のウジェーヌ・ドラクロワ (1789〜1863) がカンバスに残している。
ドラクロワはまずサンドと知り合った。ドラクロワは史実に題材を得たものを描いて批評の矢面に立たされることがあった。サンドと出会う前に描いた 『キオス島の虐殺』 も 『サルナダパール王の死』 も、人間が極限に置かれた時の表情を生々しいまでに表現して、あまりの情念と残虐さで見る人に衝撃を与えた。ドラクロワは 「人間」 を描こうとしていた。それがサンドに強い共感を抱かせたのかも知れない。サンドもありのままの 「人間」 を、とりわけ女性がいかに人間らしく自由に生きるかを題材にしていたからだ。
やがてドラクロワはショパンと親友になった。ショパンにはドラクロワの絵は強烈すぎて理解出来なかったが、ドラクロワはショパンの音楽を深く愛した。芸術への理解は互いに違っても、二人はお互いを大切にし、語り明かすことを何よりの楽しみとした。
サンドとショパン、この二人との友情を大切にしたドラクロワは、愛し合う二人の様子を絵にとどめることにした。今も残るサン・ジェルマン・デ・プレのアトリエにピアノを入れて、1838年半ばにデッサンをはじめた。それは、100×150センチのカンバスに描かれたが、ドラクロワの死後アトリエに置かれたままの状態で発見された。分割されるとショパンの部分だけが820フランで買い取られ、ルーヴル博物館所有となった。サンドの絵はその二年後の1887年競売にかけられ、デンマーク人の大金持ちの実業家に買い取られた。所有者の死後オードルップゴー・コレクションと命名され、ロマン派以降の巨匠たちの絵と共に、今もコペンハーゲンから車で三十分ほどの緑深い美しい屋敷に飾られ、その際立った存在感で見る人たちをひきつけている。
分割された二枚の絵を想像して一枚のカンバスに入れなおしてみると、二人の表情の意味がよりいっそう鮮明になる。ショパンは芸術をになう覇者として決然とした情熱を示し、いっぽうサンドは、憧れのショパンの音楽に身をゆだねて夢見心地だ。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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