ショパンは、ナリーのサロンではじめて会ったサンドに挨拶したものの、女性としての魅力は感じなかったようだ。家族に書いた印象は興味深い。
「とても有名な人と会いました。マダム・ジュドヴァンです。ジョジュル・サンドという名前で知られていますが、その表情には共感できない何かがあります。近寄り難い人です」 ショパンが知っている女性たちというと、その多くは財産と時間をもてあました女性たちだ。サンドのように、自分の才能で堂々と生活を切り開いている女性などいない。男性名をペン。ネームに、最高の原稿料を稼ぐ流行作家。読者に社会の歪みへの問題意識をあおっては話題になり、批評家たちからは時に辛辣に言葉を浴びせられ、私生活では次々に恋人を変えるスキャンダラスな作家として、話題に事欠かない存在だった。それでも、何と言われようとわが道を行くという信念が、その葉巻を手にした姿からにじみ出ていた。そんな雰囲気のサンドだったので、ショパンは圧倒されて近寄り難さを感じたのだろう。 そうは言っても、二人が親しげに話しを交わすようになるのにはあまり時間はかからなかった。出会ってからひと月もたたない1836年十一月にはショパンはマリー、リストらちとともに、サンドを自分の豪華なアパルトマンに招いた。 十二月になると、ショパンは
「今日友人数人を招いています。サンド夫人も来ます。リストが演奏し、ヌーリが歌うことになっています」 と友人を誘った。サンドも同じような手紙で友人のハインリヒ・ハイネを誘った。 二人がそれぞれの友人を同じ会に招いたからといって、もうこのころに二人が恋人になったと考えるわけにはいかない。というのは、前述したグジマワへショパンが人生の一大事を相談するかのような手紙も、その後まもなくサンドがグジマワへしたためている長い手紙も二年先だからだ。 ショパンは、まだマリア・ヴィオジンスカへの想いを断ち切れないでいたのだ。 サンドは翌1837年一月にパリを出て、フランス中部ベリー地方の故郷ノアンに帰るが、ショパンのことを忘れられなくなっていた。リストやマリー・ダグーを介して、何度もショパンを自分のノアンの館へ誘うが、マリア・ヴォジンスカのことで気持の整理をつけることが出来ないショパンは、その誘いにうなずくことはなかった。 |