〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/24 (金) 

作家ジョジュル・サンド誕生
サンドが作家になることを夢見てパリで暮らしはじめたのは1831年、奇しくもショパンはポーランドからの長い旅を終えて、目的地パリに馬車で到着している。
ジョジュル・サンドというペン・ネームは女子名ではない。当時一緒に暮らしていた共同執筆者ジュール・サンドにちなんだもので、やがて独り立ちした時、周囲の勧めでジョジュル・サンドを作家名とすることにした。ナポレオン法典のこの時代、女性は兵士を産むためのものといった価値観が平然と語られ、女性名で小説を発表したところで、作品としての正当な評価は望めなかった。だから彼女は、男性名をつければ、当時大活躍のバルザックやスタンダールといった大作家たちを目指すスタート地点に立てると考えていたのだ。結果は予想通りで、ジョジュル・サンドとしての最初の作品 『アンディアナ』 はたいへんな評判となった。これからのちサンドは自分の体験をもとにした女性の愛、それが歪んだものであっても女性の男性への愛といったように、男性から見た女性ではなく、女子から見た女性たち、その視点から考える男性たちといったテーマを好んでとりあげた。それが読者の心を引きつけた。
サンドはパリ文壇に華々しくデビューし、それ以降、生涯に百冊の本を次々に発表していくという勢いのまま、立ち止まることもなく最も注目される作家としての地位を譲ることなく生き抜いていく。サンドはデビュー後すぐに注目され、当時人気の作家たちや芸術家たちと話しを交わすようになり、そのなかに、グジマワがいた。ショパンもグジマワのもとをよく訪れたが、しかし、ジムマワを介してこの時期にサンドと出会うようなことはなかった。
やがてショパンも音楽家としてパリで大活躍をはじめ、サンドと共通する知人と次々に知り合いになった。そんななかで、二人の出会いが間もなく訪れる。
恋多き女性、サンド
1836年十月末、サンドはフランス館に滞在しているリストとその愛人マリー・ダグー伯爵夫人 (1805〜1878) を訪ねた。そして、そこでショパンと初めて出会うことになった。
繊細で透き通るような顔色、絹のような栗色の髪、洗練された貴族のようなしくさ、まるで王子のようだとリストが描写するショパンの姿、そしてその指がピアノの上を走り、誰もが魅了される美しい音楽を奏でる、サンドはこれ以上の感動を今まで誰かに感じただろうかと思って身を震わせた。口数が少なくなってしまったサンドの様子にマリーは気づいた。
マリーのサロンにはパリで活躍する文人や音楽家たちがいつも集まっていた。教養豊かでピアノの名手でもあったマリーは、社交界の中心人物の一人と目されていた。当代きっての音楽家リストを愛人にして、自分のサロンに多くの文人や芸術家を集めるマリーだが、しかし、望みは作家になることだった。だから表面はサンドと強い友情に結ばれながら、心の底ではその文学的才能に嫉妬していた。
文学への憧れの強いリストは、サンドを高く評価し、自らもペンをとりたいと願ったが、しかしかたわらにいるマリーの助けを必要とした。音楽批評雑誌 『ガゼット・ミュジカル』 から執筆依頼が来ると喜んで引き受けるのだが、素案をもとに原稿に仕上げるのはマリーだった。ピアノ界のライバル、タールベルクを糾弾するなど、リストの音楽批評は辛らつながら的確と評判をとったが、実際のところは、リストの考えをまとめるマリーの力によるものだった。マリーはリストへの愛情からゴースト・ライターの立場に甘んじていたが、いつかサンドのように作家として有名になりたいと考えていたのである。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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