〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/24 (金) 

ジョジュル・サンド
グジマワ公への相談の内容を憶測する前に、まずジョルジュ・サンドについて語らなけらばならない。
ジョジュル・サンドの本名はアマンティーヌ・オーロール・リュシル・デュパンで、1804年パリに生まれた。祖母はポーランド王の血を受け継いでいた。このように書くと、ポーランド人であるショパンと生まれもっての縁があるようでもあるが、べつにポーランド人の血が流れていたというわけでもない。曽祖父の父ド・サックスはドイツ、ザクセン選挙候であったということからポーランド王になったのである。そこから四代を経てオーロール、のちのサンドが誕生した。
サンドの祖母デュパン・ド・フランクイユ夫人は、革命の嵐のさめやらぬパリを出てフランス中部ベリー地方の小さな村ノアンに館を買った。これがショパンとサンドの生活の舞台となって 「ノアンの館」 として世界中に有名になる場所だ。
フランクイユ夫人には一人の息子がいたが、ナポレオン戦役でスペインに出征中、上官の愛人と恋に落ち、帰国後サンドが生まれた。祖母はもちろん、この結婚に大反対だった。息子が選んだ相手はセーヌ河畔の鳥屋の娘で、しかも娼婦のような状態で息子と出会っているからだ。
両親の血をサンドはしっかり受け継ぎ、父からは芸術的才能を、母からはたくましいほどの生活力を得た。四歳のとき、落馬がもとで父親が死んでしまうと、サンドは祖母のいるノアンで暮らすこととなった。やがて十八歳で、カジミール・リュドヴァン男爵夫人となり、翌年長男モーリスを産んだ。しかしそのころから、もうサンドは夫との価値観の違いに気づきはじめていた。
夫が興味を示すのは、狩と酒、サンドに興味があるのは世の中のこと、政治状況、男に虐げられた女性が自立する方法といった社会問題だった。退屈な夫との生活に終止符をうつことにしたのは、長女ソランジュを産んで二年後の二十六歳の時だった。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
Next