〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/23 (木) 

ロッシーニとマイヤベーア
ロッシーニはオペラ座やイタリア座を率いており、その壮麗な演奏会の様子は批評家たちの筆によってヨーロッパ中に伝えられ、多くの音楽家や芸術家たちをパリに集めることとなった。ロッシーニの作品は1817年にイタリア座で上演されるようになり、ロッシーニ自身が1824年にイタリア座の芸術監督になって、その大規模な舞台装置、耳慣れない楽器まで入った大編成のオーケストラ、筋を説明する合唱によるわかりやすく感動的な内容、さらに歌い手たちの音域の広さとその声量が観客たちを魅了した。
そのオペラは序曲からすでに劇的で、人々は上演を楽しみにしていた。たとえば、≪シンデ「レラ≫ という作品は、その筋書きは誰もが知りながら、それに時代性を反映したものが加えられることで、わかりやすく娯楽性に富み、けれども見ごたえのあるオペラとなって人気を博した。
ロッシーニは多くの歌い手も育てたが、そのなかにはショパンの大切な友人の一人アルドフ・ヌーリもいた。ヌーリはフランスのテノール歌手として、一時代を築いたが、それはドッシーニとの出会いでドラマティック・テノールにさらに磨きをかけたからだ。ロッシーニに気に入られたヌーリは二十四歳で父の後を継いでオペラ座の第一テノール歌手となった。その声質は柔らかく音域は広く表情は多彩だったが、肝臓を患ってからは思うにまかせず、演技力で人気を維持していた。しかし結局、自らは絶望し、1839年三月はじめ、滞在先のナポリで投身自殺した。その死はマヨルカ島からイタリアに寄って帰る途中のショパンにも知らされ、たいへんなショックをもたらすこととなった。
ロッシーニの壮大なオペラはやがてマイヤベーアによって受け継がれていく。パリの聴衆は壮麗で派手な大規模なオペラをほんとうに愛していた。
ロッシーニの最後のオペラ ≪ウイリアム・テル≫ と同じように、マイヤベーアの ≪悪魔のロベール≫ はパリ中の話題をさらった。悪魔、夜中の十二時、聖女の救い、といういわば物語の三種の神器がそろったものだ。公爵ロベールの父ベルトラムは悪魔で息子を自分の世界に引き入れることを企んでいる。夜中の十二時までにそれが出来なければ、ベトラムの身は破滅する。必死になるベトラムの魔の手からロベールを救ったのは亡き母の手紙で、父は敗北し姿を消す。劇的な舞台展開や、華麗な管弦楽法は圧倒的な好評を博し、オペラ座はじまって以来の観客動員数となった。
パリに着いたばかりの1831年十二月、ショパンは感激して、ティトゥスにさっそく報告の手紙を書いている。大コーラスの声量や大がかりな舞台装置、演出の巧みさ、たとえば悪魔は拡声器を使って声を増幅し、舞台上の教会の中の光は輝き、そこで楽器が奏でられる。壮麗な規模を誇示するかのような演出にショパンはすっかり度肝を抜かれたようだ。しかし、マイヤベーアがこれほどの成功を手にできたのは、オペラへの長年のたいへんな労力が報いられたからで、そのようなことを期待されても自分には出来ない、だから自分はオペラを書かないと、ショパンは故郷の人々に伝えてほしいと言っているかのようだ。
この時代のピアノ作曲家に依頼される仕事のひとつが、人気を博したオペラ作品のアリアを編曲することだった。パリに到着早々、楽譜出版社のシュレザンジェから依頼され、友人となったチェロ奏者のフランコムの力を借りて、≪マイヤベアーのオペラ <悪魔のロベール> の主題による大二重協奏曲≫ を作ったことは、すでに述べた。
リストやカルクブレンナーもこの作品の編曲や変奏曲を次々に発表したが、それは、評判のオペラを家庭で楽しめる作品にすれば、楽譜が売れるからだった。
このようなオペラに夢中になるパリの聴衆は、洗練され洒落ていて個性にあふれた刺激的なものをピアノ演奏にも求めた。華麗で力強く、その演奏上の動作も派手で、超絶技巧という奇妙な訳語でその姿が思い浮かぶようなリストやカルクブレンナー、タールベルクといった演奏家こそまさに聴衆が求めるヴィルトゥオーソであった。
彼らとは異なるショパン的な 「ヴィルトゥオーソ」 にも注目が集まった。繊細な音が連なって転がっていくかのような美しさ、細部にまで神経を行き届かせた音色、どこをとっても完璧としかいいようがない美意識にあふれた形式感、そんなショパンの作品と演奏にパリの音楽愛好家たちは魅了された。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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