〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/24 (金) 

ヴォイチェフ・グジマワ公
ショパンはパリに住むポーランド人たちと親密な交際をした。ランベール館のチャルトリスキ公を祖国ポーランドの代表者として尊敬した。ミツキェヴィチやヴィトフィツキといった詩人たちに対しては同じ芸術家として、言葉という表現手段で愛国の精神を鼓舞していると頼もしく思っていた。ポトツキ伯爵夫人やチャルトリスキ公家、ラジヴィウ公家のポーランドの貴婦人たちは、大切な教え子でありその作品の賛美者として作曲家ショパンの励みだった。マトゥシンスキやフォンタナはポーランド時代からの大切な友人であり、パリでは非常に身近に暮らして、ショパンのよき理解者だった。
なかでも、ヴォイチェフ・グジマワ公 (1793〜1871) は特別だった。重要な相談役と尊敬し、パリでもっとも信頼を寄せていた。グジマワはウクライナ生まれで、軍人としてのキャリアが長く、1812年のナポレオンのロシア侵攻に参戦し、その後、銀行家としてワルシャワで裕福な貴族社会を率いた。そのサロンには多くの芸術家を迎え、 『ワルシャワ・クーリア』 で音楽批評もし、ショパンの芸術の重要な擁護者の一人だった。
グジマワは1830年のワルシャワ蜂起にも参加し、その結果多くのポーランド人たちと共にパリで亡命生活を送ることになった。しかし、豊かな財産を背景に、パリでもポーランドと同じように芸術の擁護者となり、 「ポーランド文学同盟」 を設立した。ポーランド慈善団体を率いて困窮するポーランド移住者たちの支援活動にも骨身を惜しまなかったが、このような情の厚い十七歳年上のグジマワを、ショパンは心から信頼していたようだ。それを証明するかのような出来事が起こった。
親しいポーランド人にも心の奥をなかなか覗かせようとしなかったショパンだが、どうしても相談しなければ、自分で解決出来ない問題をかかえてしまった。戸惑いを隠せずに、それでも助けを求めてグジマワ公に手紙を書いてのは1838年春のことだ。 「今日、夜でもいいのですが、夜中の一時でもかまわないのですが、どうしてもお会いしたいのです。あなたのご迷惑になるのはわかっています。でも、あなたのお考えに従ってきた私に、どうかご助言をいただきたいのです」。
この相談の内容は何だったのだろうか。それはこれから登場するショパンの生涯でもっとも重要な人物となるジョルジュ・サンドの登場とともに明らかなうなる。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ