亡命者ショパン | ところが、ロンドンに向かうにあたり旅券をどうしたらいいかということが問題になった。ポーランドを出たとき、ロシア政府が発行したものには、パリを経由してロンドンへと上書きされていた。それはパリには短期間しかいられないという意味だった。しかし前述したように、パエルの政治力でフランス政府から長期滞在を得ていた。 プレイエルとロンドンに行くことにした時、パリ駐在のロシア大使は、ショパンにロシア宮廷音楽家の称号を与え、ロシアにその身柄を所属させようとした。しかし、ショパンは祖国の敵ロシアからの恩恵などに欲したくなかった。 結局、フランス政府にパスポートを発行してもらうことにした。これによって、ショパンはロシアに征服されているポーランドから亡命してきた人たちと同じように、フランスの保護下に入ることになる。 ロンドンではフォンタナの友人が待ち受けていた。フォンタナはその友人に自分の大切なショパンが行くのでよろしくと手紙を書いていた。有名な演奏家だけれども、演奏するために行くのではないから、誰にも知られないように一週間ほどロンドンを楽しみたいだけだからと書いた。贅沢三昧の旅の間も、ヴォジンスカ夫人からの手紙が転送されてきた。 パリに帰って八月、ヴォジンスカヤ夫人に手紙を出した。マリアに対して兄のような気持になることにしたと、自分の決意を明らかにした。気持に区切りをつけたというじょとだろう。 |
| 故郷の人々の願い | ショパンがパリに登場したころ、パリではマイヤベーアのオペラが人々に一大センセーションを起こし、さらにショパンが友人になったベルリオーズの
≪幻想交響曲≫ が評判となっていた。 パリの生活を始めたショパンに、故郷の恩師エルスネルはオペラ作曲家になってはと勧め、パリで亡命生活をしていたポーランドの詩人ミツキェヴィッチもヴィトフィッキもオペラ作曲家にぜひなってほしいと言い、ショパンの父からは
≪ピアノ協奏曲≫ 第三番を期待しているといった手紙が届いた。当時のパリでは、大規模な音楽シーンを求める聴衆がほんとうに多く、オペラは盛況だった。このようなパリの音楽状況のもと、まずはロッシーニが、そしてマイヤバーアのオペラが大人気を誇っていた。 貴族たちの社交場はオペラ座やイタリア座といった劇場だった。流行のドレスを着て香水を匂わせて、オペラを鑑賞する。そして幕間には社交界の噂話と歌い手や作品への評価を楽しみ、人気の歌い手にはプレゼントも用意していて、そのことを自慢しあうことも忘れなかった。 ナポレオンが政権をとった1804年、イタリア遠征でのオペラ・ファンになったナポレオンは帰国後、フランスでのオペラ上演を奨励した。ナポレオンは失脚したが、もともとフランスでは音楽とは独立したものではなく、宗教儀式や劇などと結びついて発達してきたために、オペラの人気はまったく衰えることを知らなかった。そこにロッシーニが登場したのである。 |
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