翌年の1836年の夏にはすっかり元気になって、アリアに会うためにドイツの保養地のマリエンバードまで行った。そこでショパンはマリアに結婚を申し込んだ。しかし、マリアのテレサはショパンの健康を危惧して、婚約を公にしないようにと注意した。テレサは、ショパンの健康にすべてはかかっているということを何度も念を押した。二人の希望に反対するのではなくいぇ、安心できるまで待たなければならないと言った。 九月、パリに戻るとショパンにヴォジンスカ夫人から手紙が届いた。健康に注意することにすべてはかかっている、と書かれていた。十一時には寝ること、毛糸の靴下を履いてさらに室内履きも忘れないこと、医者もそうするよにと言っていると強い口調だ。 十月になるとまたマリアの母から手紙が来た。そこには自分の命令をショパンは守っていないのではと非難の言葉が書かれていた。九月に約束した就寝時間も室内履きと毛糸の靴下についても、何も守っていないのではとある。翌年の五月か六月まで、半年以上会えないというマリアの言葉が付せられていた。ショパンは一ヵ月後、室内履きのことは忘れていないと返事に書いた。 翌年二月になってまたショパンは寝込んだ。今度はインフルエンザだったが、パイにいたマリアの兄アントニがそのことをポーランドに帰ったヴォジンスキ家に知らせた。 これで望みはなくなった。不健康なショパンのことをマリアは両親からあきらめるように諭された。そして、翌1837年七月にはショパンはマリアから最後の手紙を受け取った。
「美しい音楽帖のお礼を申し上げたくてペンを取りました」 で始まり、 「さようなら、私たちのことを忘れないで下さい」 で結ばれていた。 ショパンはこの手紙にあるとおり、マリアに音楽帖を贈っていた。そこには歌曲八曲とのちに
≪ノクターン≫ 第二0番として遺作出版された ≪レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ≫ の写しが収められていた。 ショパンにとって、マリアとの別れはとてもつらいものだった。マリアとヴォジンスキ家の人々からの手紙をショパンはリボンでまとめ、その上に
「わが悲しみ」 と書いた。 ショパンはパリではなかなか心情を吐露しなかった。ポーランド時代、親友ティトゥすには恋のことから日々のことまで何でもあからさまに語ったが、マリアとの婚約についても、その破局についても、その気持を周囲の人に語ろうとはしなかった。みなショパンの様子を心配はしても、だれもその原因を詳しくは知らなかった。 ド・キュスティーヌ公爵は、意を決したように丁寧な手紙を送ってきた。心理的にいらいらしていると体まで病気になってしまうからパリを離れてはどうですか、自分の居城があるライン川近くのサン・グラティアンにぜひいらしいて一ヶ月ほど休息をおとり下さい。という誘いの手紙だった。ショパンは、その厚意を受け数日間滞在したが、気分を晴らすことなくまたパリに帰って来た。どうしたらいいのだろう、そう思っていると、友人のピアノ製造業者プレイエルがロンドンに仕事に行くということを知った。ショパンは、音楽家として同行するのではなく、貴族のように贅沢な旅をしたいと思い、友人として同行することとした。 |