ヴォジンスキ家の見送りを受けてパリへ帰る途中の1835年十月、ライプチッヒに立ち寄ると、メンデルスゾーンと再会し、さらにシューマンともはじめて会った。ショパンはシューマンが自分の
≪ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲≫ を絶賛した批評を書いてくれたことに感謝の言葉を述べた。しかし何よりも印象深かったのは、シューマンと五年後に五年後に結婚することになるクララ・ヴィークとの出会いだった。十六歳のクララがショパンの練習曲を演奏すると感動して、この曲集を演奏できる唯一のドイツ女性だと称賛した。前述したように、リストが自分の練習曲を演奏するとショパンはその解釈と演奏法にいらだちを感じていたので、クララの演奏曲解釈がいかにショパンの理想に近かったかがわかる。当時天才少女と呼び声高く、どこでもその演奏会が満員になるほどのクララの才能をショパンも高く評価した。ライプチッヒからハイデルベルグへ寄り、弟子のグートマン家に立ち寄った際、体調を崩して寝込んでしまった。どうにかパリに帰ったが、すでに十月十八日となっていた。 パリに帰って来ると、マリアの手紙が待っていた。贈られたワルツを大切のしたいからと製本してもらったことや、ショパンの姿がないので寂しくて悲しいといったことが綴られていた。
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