〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/19 (日) 

シューマンと出会う

ヴォジンスキ家の見送りを受けてパリへ帰る途中の1835年十月、ライプチッヒに立ち寄ると、メンデルスゾーンと再会し、さらにシューマンともはじめて会った。ショパンはシューマンが自分の ≪ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲≫ を絶賛した批評を書いてくれたことに感謝の言葉を述べた。しかし何よりも印象深かったのは、シューマンと五年後に五年後に結婚することになるクララ・ヴィークとの出会いだった。十六歳のクララがショパンの練習曲を演奏すると感動して、この曲集を演奏できる唯一のドイツ女性だと称賛した。前述したように、リストが自分の練習曲を演奏するとショパンはその解釈と演奏法にいらだちを感じていたので、クララの演奏曲解釈がいかにショパンの理想に近かったかがわかる。当時天才少女と呼び声高く、どこでもその演奏会が満員になるほどのクララの才能をショパンも高く評価した。ライプチッヒからハイデルベルグへ寄り、弟子のグートマン家に立ち寄った際、体調を崩して寝込んでしまった。どうにかパリに帰ったが、すでに十月十八日となっていた。
パリに帰って来ると、マリアの手紙が待っていた。贈られたワルツを大切のしたいからと製本してもらったことや、ショパンの姿がないので寂しくて悲しいといったことが綴られていた。

吐 血

しかし、パルに着いてすぐにまたショパンは病に倒れてしまった。今度はさらにひどく咳き込んで血を吐いた。このころ同居していたマトゥシンスキが懸命に看病したが、熱にうなされて幻覚を見るほどで、ずっと引き籠っていたため死んでしまったとの噂さえ流れた。ショパンの安否を気遣う人々があまりにも多いために、とうとう翌年の1836年一月はじめ、 『ワルシャワ・クーリア』 に 「ヴィルトゥオーソ・フリデリック・ショパンの類稀な才能への崇拝者、あるいは友人の方々へ。ショパンが死んだという噂は、まったくのでたらめです」 との記事が出るほどだった。
ワルシャワの父からの手紙が、そのとき人々がどれほど心配したかを物語っている。前年の十二月最初にはショパンが重体だとの噂が広がり、クリスマスには死にかけているとの知らせまで来たこと、ただし十二月二十四日付の 『ジュナル・ド・デバ』 に夜会で演奏したということが出ていたのを、パリ在住の知人が知らせてくれて、やっと生きた心地がしたことなどが綴られていた。
ハイデルベルクで病気になったことをショパンは両親に書いていなかったので、とつぜんのショパンの重病説はワルシャワの人々を打ちのめしたのだ。
父は、遠く離れたショパンが心配でならなかった。作曲とレッスンに忙しく、長い夜会に出ることが必要なこともわかるけれど、健康を第一にと親らしい助言を繰り返し手紙に書いた。父はマリアのことも気づいていて、ドリスデンが特別な場所になったのはわかるが、マリアの父ヴォジンスキがワルシャワに来たこと、その理由はどうもショパンの健康を不安に思ってのことらしいとの警告も息子に書いている。
ヴォジンスキは、ショパンが血を吐いて死んだかもしれないという噂をワルシャワで聴いたに違いない。しかし、マリアとの将来を夢見るショパンは、そのことが自分たちにどのような影響をもたらすのかなど、まったく考えもしなかった。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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