ショパンはショッセダンタンのアパルトマンを、エレガントな家具の美術館のようだといわれるほど高価な調度品と花々で飾った。リストが来ると、さまざまな曲を競いあうように演奏したが、ショパンは時には感情的になることがあった。 ヒラーと演奏しても疲れることはなかったが、リストと一緒のいるといらだちを感じた。 リストはショパンの難しいエチュードはこのように演奏すべきだとなどと言いながら、ショパンが手紙を書いているかたわらで勝手な解釈を披露したりした。自分の抱く理想的な作品の姿が壊されるようで、ショパンはヒラーに、リストがぼくのエチュードを演奏すると筆が乱れる、ぼくには歯が立たないほどの過激な弾き方なんだ。そんなふうには絶対演奏してほしくないのに、と憤懣をぶつけた。 1834年五月には、仲のいいヒラーとパリでも親しく交友したメンデルスゾーンに呼ばれて、ドイツのアーヘン音楽祭に行った。メンデルスゾーンのデュッセルドフの家にも招待され、楽しいひとときを過ごした。メンデルスゾーンは母親に手紙を書き、
「ショパンの音楽は革新的で驚かされる。まるでパガニーニのようだ。彼は不可能なほど奇跡的な音楽を作り出す」 と絶賛した。メンデルスゾーンは同時代の大音楽家でありながら、ほほえましいほどにショパンに心酔した。 パリに帰ると、ショパンはまたレッスンと作曲の日々を送るが、この年の暮れは演奏会でも忙しかった。十二月十四日にはパリ音楽院ホールで、≪ピアノ協奏曲≫
ホ短調の第二楽章を演奏した。ほかにベルリオーズ指揮で管弦楽曲 ≪イタリアのハロルド≫ などが演奏されたが、その大編成で大音響の作品とのつりあいは決してよくなかった。その十日後、今度はリストとモシェレスの
≪二台のピアノ連弾用大シナタ≫ を演奏した。 『ガゼット・ミュジカル』 は 「当代最高の演奏家二人」 と絶賛した。 故郷の父にもショパンの名声は届いていた。しかし、家族にとってはあいかわらずショパンの健康が気がかりだった。きちんと食事はいているのだろうか。毎日夜中まで社交でたいへんなのでは、社交界といっても小さな世界なのだから、それよりも自分を大切にするようにと、連綿と親心が綴られた手紙が来た。 |