〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/17 (金) 

注目すべき弟子たち
同時代の大ピアニスト、モシェレス、カルクブレンナーがそれぞれ自分の子供のために、ショパンにレッスンを依頼してきたという興味深い出来事がある。教師ショパンの実力のすごさを示すエピソードだが、どのぐらいの演奏能力があれば教えを乞うことが出来たのかを知ることも出来て、なかなか面白い。
モシェレス、カルクブレンナーの子供となると、音楽的才能の点では申し分ないはずだ。ショパンより十六歳年上のモシェルスは当時最高の音楽家の一人で、彼の四手連弾作品で1839年に共演すると、二人はすっかり意気投合した。モシェレスは娘のエミリーを連れてショパンを訪ねて来た。その全作品を収集しようとするほどショパン・ファンのエミリーは、前奏曲集の一曲を演奏してもらい感動した。その四年後、エミリーのたっての願いか、父モシェレスはショパンにレッスンを依頼して来たのである。
十五歳のエミリーは ≪練習曲集≫ 作品一〇、二五、 ≪ワルツ≫ ≪スケルツォ≫ ≪マズルカ≫ などをすでに演奏出来たようだ。教えてほしいと頼んだのは、≪スケルツォ≫ ホ長調・作品五四だと思われる。
さらにカルクブレンナーも自分の息子のためにショパンにレッスンを依頼してきた。
カルクブレンナーは前述したように、パリ到着早々のショパンに指導を申し出た大ピアニストだが、若手育成にも熱心だった。もとはドイツで活躍し、1824年三十九歳の時、パリに落ち着くと、ピアノ製造業者プレイエルの経営部門で、音楽家としてのみならず事業家としても名をなした。そこ頃から若い演奏家のための講座を開き、そこに若きショパンを誘ったというわけだ。
そんなカルクブレンナーから息子の指導を頼まれたのだから、先生ショパンの力はたいへんなものだったということを、あらためて知るこことなる。1845年にカルクブレンナーがショパンに出した丁重な手紙によると、息子アルチュールに教えてほしい曲は ≪ソナタ≫ 作品五八だとある。
ショパンに教えを受けたアルチュールは当時十七歳で、その後、父ほど大成はしなかったが音楽家としての道を歩んでいった。
ショパンの楽譜出版
社交界で注目される音楽家となり、弟子たちに憧れのまなざしを受けるようになったショパンは、その生活の糧を楽譜出版でしっかりと手にするようになっていく。
作品一のロンドはワルシャワで、作品二はウィーンのハスリンガーで作品三は同じくウィーンのメケティで出版していたが、1833年の年末には、パリでシュレザンジエ、イギリスではウエッセル・アンド・コーポレーション、ドイツではキストナー (のちブライトコプフ・ウンド・ヘンテル) と出版契約を結んだ。すなわち楽譜がこの三ヶ所で同時に出版されるという契約だ。
このやり方が当時では著作権侵害を防ぐ最良のもので、ブライトコプフ・ウンド・ヘンテルが持つ市場のおかげで、ショパンの楽譜は世界中に販売されることとなった。出版契約があるということは、自分の作品を宣伝するために演奏会を開き、そこで演奏して披露する必要がないということだ。当時はエラールやブロードウッドといったピアノ・メーカーで演奏して自分の作品を宣伝するのが普通だったが、ショパンは演奏しなくても、楽譜が売れる音楽家となったのである。
≪ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲≫ ≪ピアノ三重奏≫ ≪ポーランド幻想曲≫ ≪ロンド・クラコヴィアック≫ を新しく出版しなおしたほか、それまでに書いた ≪マズルカ≫ 作品六、七、一七、≪ノクターン≫ 作品九、≪練習曲集≫ 作品一〇、≪ロンド≫ 作品一六、≪ワルツ≫ 作品一八が次々と出版された。楽譜出版に対する批評も増えたが、≪ルビュー・ムジカル≫ はショパンの歩みは独自のもので、その音楽はふつうの語法ではけっして到達しえない詩の領域にあると絶賛した。
ドイツではシューマン編集の 『新音楽時報』 イリリスでは 『ミュージカル・スタンダード』 がショパンを熱心にとりあげた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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