クレメンティと同じ時代に生きた作曲家で演奏家に、プレイエルという人物がいた。彼もクレメンティと同じくピアノ製造に乗り出し、設立した会社はその息子カミーユ
(1788〜1855) も時代になって、フランスでもっとも有名なピアノ製造会社となった。ショパンはパリで最初のコンサートにプレイエル社のホールを推薦された。その後、はるかスペインのマヨルカ島へ旅行先へもプレイエルの小型の縦型ピアノを送ってもらい、帰国後、サンドと暮らしたノアンの館でも、プレイエルのピアノを使っていた。 当時、ため息のような音まで求めるのなら、プレイエルのピアノをと考えられていた。 ショパンの演奏を聴いた人の多くが感想としてもったのが、彼の演奏は、とても音が小さいということだった。大きな音が出ないピアノを使っていたのではなくて、ショパンはささやくようにピアノを語らせるのが好みだった。 ショパンがパリで使ったプレイエル社のグランド・ピアノは、音域は六オクターヴと五度、ペダルは二本、弦は一本から三本と現在のピアノに近いものだった。それを使ってショパンは、彼ならではのピアノでしか表現できない音楽を作った。左手はテンポを保ち、右手はテンポを微妙に変えて曲想を豊かにするというショパン独特のテンポ・ルバートを考え出した。ペダルを駆使することで、旋律線をそれまでになくなめらかなものとした。長く豊かに流れる旋律線、あるいは短くせっぱつまったような和音、さまざまな表情を示す音楽がショパンの美しい指から生み出されていった。レガートも歯切れのよいストレットも、和音やオクターヴの連なりも、ショパンが望むとおりの音を、プレイエルのピアノが可能にした。 プレイエルのピアノならタッチが軽く柔らかく澄んだ音が出る、自分が望む音を出せるとショパンは考えていた。 |