〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/18 (土) 

ショパンが愛用したピアノ
ミクーリが弟子入りしたのは、ショパン三十四歳の時だった。ミクーリはショパンから楽譜を写譜することやほかの弟子へのレッスンを見学することを特別に許されて、後年ショパンの作品集を編集出版している。
ミクーリによると、ショパンは弟子たちに音色のすばらしいコンサート・ピアノを弾かせてレッスンした。それは一流の楽器でしか練習すべきでないとショパンが考えていたからだという。
ショパンはどのピアノがお気に入りだったのだろうか。ここことを考えるにあたって、まずはピアノについて少し振り返ってみたい。
ピアノがはじめて人々の前に姿をあらわしたのは、十八世紀フィレンツエのメディチ家の楽器係の手によるものだった。構造的には現在のものと同じで、指で鍵盤をたたくと鍵盤に連動しているハンマーが動き、ハンマーが弦をたたいて音が鳴るというものだ。
各地で楽器製造に携わる職人たちは、音量、音色、音域などの開発に情熱を注ぎ、十八世紀末にはピアノは驚くほどの発展をとげた。大きく厚みのある音、小さくささやくような音、微妙な音色の違いの重なり、連なりができるようになった。音源となる弦とハンマーによるアクション構造の研究に、職人たちは努力を惜しまなかった。弦は時を追うごとに太くなり、それにともなって、ハンマーのクッションも深くなっていった。弦をいつも同じ緊張状態に保ち、響きを豊かにするために、鉄製フレームと響板の研究も重ねられた。
部品は気の遠くなるほどの多さで、弦やハンマーだけについて語ったところで、この楽器の構造に少し触れたに過ぎない。すべてが作用しあって音が美しく響くようになる。そこには、さまざまな研究の成果を手にしては特許を申請しつづけた職人たちの熱意があった。
ショパンが幸運だったのは、ピアノという楽器がほぼ完成された時期に、彼が音楽家としての道を歩み始めたということではないだろうか。
1829年に最初にショパンがウィーンへ行って、協奏曲を演奏して大好評を得たという話しは前述した。家族への手紙に、 「シュタインはすぐにぼくの宿にピアノをよこしてくれた」 「グラーフはもっと優秀なピアノを作っている」 とある。この二社はウィーンを代表するピアノ製造業者で、そのほかにもう一社がピアノの提供を申し出たことがあるが、ショパンが演奏会で選んだのはグラーフ社のピアノだった。
やがてパリで生活するようになって、ショパンが愛用したのは、プレイエル社のピアノだ。さらに晩年になってイギリスに渡ったとき、使ったピアノはブロードウッド社のものだった。各地でそれぞれ評判となるピアノが作られるようになって、自分にあったピアノを選ぶことが出来る次代に、ショパンは生きることが出来た。
プレイエルのピアノ

クレメンティと同じ時代に生きた作曲家で演奏家に、プレイエルという人物がいた。彼もクレメンティと同じくピアノ製造に乗り出し、設立した会社はその息子カミーユ (1788〜1855) も時代になって、フランスでもっとも有名なピアノ製造会社となった。ショパンはパリで最初のコンサートにプレイエル社のホールを推薦された。その後、はるかスペインのマヨルカ島へ旅行先へもプレイエルの小型の縦型ピアノを送ってもらい、帰国後、サンドと暮らしたノアンの館でも、プレイエルのピアノを使っていた。
当時、ため息のような音まで求めるのなら、プレイエルのピアノをと考えられていた。
ショパンの演奏を聴いた人の多くが感想としてもったのが、彼の演奏は、とても音が小さいということだった。大きな音が出ないピアノを使っていたのではなくて、ショパンはささやくようにピアノを語らせるのが好みだった。
ショパンがパリで使ったプレイエル社のグランド・ピアノは、音域は六オクターヴと五度、ペダルは二本、弦は一本から三本と現在のピアノに近いものだった。それを使ってショパンは、彼ならではのピアノでしか表現できない音楽を作った。左手はテンポを保ち、右手はテンポを微妙に変えて曲想を豊かにするというショパン独特のテンポ・ルバートを考え出した。ペダルを駆使することで、旋律線をそれまでになくなめらかなものとした。長く豊かに流れる旋律線、あるいは短くせっぱつまったような和音、さまざまな表情を示す音楽がショパンの美しい指から生み出されていった。レガートも歯切れのよいストレットも、和音やオクターヴの連なりも、ショパンが望むとおりの音を、プレイエルのピアノが可能にした。
プレイエルのピアノならタッチが軽く柔らかく澄んだ音が出る、自分が望む音を出せるとショパンは考えていた。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ