〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/16 (木) 

最高の指導者ショパン (二)
ショパンは丁寧な指導を心がけ、レッスンは内容も手を抜くことがなかった。生徒の一人マリア・フォン・ハーダーは次のように言う。 「表現、考え方、手の位置、タッチ、ペンダリング、どれもがショパンの目からも耳からももれることはなかった。生徒がどのように演奏するかこまやかに聴き取ろうと、感覚を研ぎ澄ましていた。ショパンは本当に最高の先生でした」。
演奏している生徒に何を伝えれば向上するかをショパンはいつも考えたいた生徒に数小節しか弾かせないで、自分が演奏しつづけるという場合もあったが、その生徒にはそれが必要だと考えていたからだ。
ショパンの言葉は相手によって変わった。たとえば、その才能を高く評価し、まるで自分のようだと考えていたカルル・フィルチ (1830〜1845) に対しては、ひじょうに寛容だった。
「≪ピアノ協奏曲≫ 第一番ホ短調に対する私たちの解釈は異なっている。だから君の感覚どおりに演奏するといい。そのように演奏される可能性もあるのだから」 しかしこの少年は、残念ながら若くして死んでしまい、おおいにショパンを悲しませた。
反対にこのような才能を認めない場合、ショパンは決して手をゆるめなかった。弟子の中には半年間 ≪ノクターン≫ 作品一五の二をレッスンで毎回弾かされる人がいた。その弟子は師の評価を得たいと、レッスンになると前回ショパンが弾いてくれたように、必ず弾くことにしていた。すると 「それだけがすべてではありませんよ」 とまたまったく違った演奏をしてみせたという。
このことが語るように、作品への解釈という点でショパンはひじょうに厳しい考え方をしていたことが分かる。たとえば、リストがベートーヴェンの歌曲 ≪アデライーデ≫ を編集し出版したとき、平凡なフェルマータを付け加えたと激怒した。さらにリストが自分の作品を演奏するときも、独自の解釈を加えてテクストを侵害することあがった。ショパンはどのような修正変更も許さず、とうとう怒って絶好状態になったこともあった。
ショパンの体はとても柔らかく、グートマンの証言では、ショパンは足を肩の上にまわすことが出来たというし、ステファン・フェラーの思い出だと、ショパンの手はウサギを追いかける蛇の口のように鍵盤上をすばやく動きまわったという。
教師としてのショパンの名声は、ヨーロッパ中に鳴り響くようになった。ロシア、イギリス、スイス、ドイツ、オーストリアとヨーロッパ各国から教えを乞う依頼がたくさんあった。しかし、かなりの演奏能力と才能があることが必要で、さらに当時の習慣として名のある人物からの紹介状が必要だったのはいうまでもない。
どの生徒も礼儀と作法に長けていて、レッスン料をマントルピースの上にそっと置いて帰るという心遣いなど、すべてにおいて上品なしぐさを忘れることはなかった。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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