〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/12 (日) 

チャルトリスキ一族
ポーランド社会とのつながりの中で、注目すべきなのが、チャルトリスキ公とその家族だった。ポーランド革命政府を率いていた公が、ロシア占領でフランスへの亡命を余儀なくされてパリに移り住むと、パリのポーランド人たちの統率者として尊敬を集めるようになった。 「ポーランド文学同盟」 が組織され、そこにショパンも1833年に参加を申し出て許可されたが、その申し出の文面は 「全力を尽くして」 協会のために役立ちたいというものだった。それはあたかもチャルトリスキ公率いるパリの中のポーランド王国への忠誠を誓うといった雰囲気だった。
前述したように、チャルトリスキ家はセーヌ川のノートル寺院の東にある小さな島セントルイス島の端のランベール館に住んだ。ランベール館は広々とした庭があって建築家ル・ヴォーによって1640年に建てられた五階建の美しい建造物だ。この館が亡命ポーランド人のよりどころとなった
ショパンはここをたびたび訪れたが、月曜日に開かれる恒例のサロンでは、チャルトリスキ家の人々のために夕べの音楽を演奏したり、亡命ポーランド人救済のためのチャリティ舞踏会で演奏したりした。
このランベール館でショパンは、マルツェリーナ・チャルトスカ (1817〜1894) に紹介された。二十五歳のマルツェリーナはラジヴィウ家の出で、公の甥のアレクサンデル・チャルトリスキと結婚していた。
マルツェリーナがショパンの弟子になったのは1840年で、友人としても師弟としても強い絆で結ばれた。ショパンの死後もしばらくはランベール館に住み、モーツァルト倶楽部を主宰し、芸術の擁護につとめたが、年老いてからは故郷のクラクフに敬愛するショパンの思い出とともに帰った。クラクフにあるチャルトリスキ美術館に、ショパンゆかりの部屋があるのはこのためだ。
そこにはマルツェリーナの肖像画と、彼女が使ったプレイエルのグランド・ピアノ、ショパンのデス・マスク、石膏で作られた手、パリのマドレーヌ寺院の葬儀で使われた花を記念に押し花にしたものなどが展示されている。ショパンの死に際してのオークションで競り落とした、紫檀の整理ダンスも保管されている。
ショパンからその類い稀な音楽的才能を認められていたマルツェリーナは、ショパンの芸術の後継者とまで言われ、ショパンの死の床では息を引き取るまで付き添っていた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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