「サロンを中心にして生きていけたら」
、このショパンの望みがかなえられる出来事が、1832年に起こった。 ヴァレンティ・ラジヴィウ公の誘いでジェイムズ・ド・ロシチャイルド男爵のサロンに一緒に行くことのなったのだ。サロンに招き入れられたショパンは、貴族のなかにあっても、誰よりも貴族らしく洗練された姿でピアノの前に座った。男爵夫人ベッティ・ロスチャイルドはショパンのピアノ演奏が終わると、その教えを受けられるか尋ねた。ベッティは音楽を心から愛し、自らも才能あふれるピアノ演奏をした。そのベッティがショパンに弟子入りを願ったことが、社交界に瞬く間に広まった。レッスン料は二十フランで、決して安くはなかったが、ベッティにならって多くの貴婦人たちがショパンの教えを乞うこととなった。 ベッティには母親よりさらに音楽的才能に恵まれたシャルロッテという娘がいた。ショパンはベッティとシャルロッテとの出会いに幸福を感じたことだろう。才能があって人柄も魅了的で、母娘ともショパン音楽の最高の理解者であった。シャルロッテは後年マチルドという娘を産んだが、晩年のショパンの数少ない弟子として残ることを許されたのは、シャルルロッテと、さらにその娘マチルドだった。シャルロッテはショパンのためにクッションを贈ったこともあり、ショパンは彼女のために
≪ワルツ≫ 嬰ハ短調・作品六四の二と、 ≪ワルツ≫ 変イ長調・作品六九の一、≪バラード四番≫ ヘ短調・作品・五二を贈った。 |