〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/13 (月) 

大富豪ロスチャイルド家との出会い

「サロンを中心にして生きていけたら」 、このショパンの望みがかなえられる出来事が、1832年に起こった。
ヴァレンティ・ラジヴィウ公の誘いでジェイムズ・ド・ロシチャイルド男爵のサロンに一緒に行くことのなったのだ。サロンに招き入れられたショパンは、貴族のなかにあっても、誰よりも貴族らしく洗練された姿でピアノの前に座った。男爵夫人ベッティ・ロスチャイルドはショパンのピアノ演奏が終わると、その教えを受けられるか尋ねた。ベッティは音楽を心から愛し、自らも才能あふれるピアノ演奏をした。そのベッティがショパンに弟子入りを願ったことが、社交界に瞬く間に広まった。レッスン料は二十フランで、決して安くはなかったが、ベッティにならって多くの貴婦人たちがショパンの教えを乞うこととなった。
ベッティには母親よりさらに音楽的才能に恵まれたシャルロッテという娘がいた。ショパンはベッティとシャルロッテとの出会いに幸福を感じたことだろう。才能があって人柄も魅了的で、母娘ともショパン音楽の最高の理解者であった。シャルロッテは後年マチルドという娘を産んだが、晩年のショパンの数少ない弟子として残ることを許されたのは、シャルルロッテと、さらにその娘マチルドだった。シャルロッテはショパンのためにクッションを贈ったこともあり、ショパンは彼女のために ≪ワルツ≫ 嬰ハ短調・作品六四の二と、 ≪ワルツ≫ 変イ長調・作品六九の一、≪バラード四番≫ ヘ短調・作品・五二を贈った。

お気に入りの住まい
1833年、ショパンはレッスンとサロンでの音楽にその日々を費やした。演奏会といえば、ほかの音楽家のものにデュエットで参加するくらいだった。三月二十三日のヒラーによる慈善演奏会では当時の演奏会の慣例どおりにオーケスロトラ曲、声楽曲、フランコム作品のチェロ室内楽とさまざまな曲目が並んだ。そこでショパンはリスト、ヒラーとともに、三台のピアノによるバッハのコンチェルトを演奏した。
四月二日にはハリエット・スミッソンのためにベルリオーズがテアトル・イタリアンで開いた慈善演奏会に出演した。リストが自作の ≪ソナタ≫ 作品二二を四手用にアレンジしたものをショパンはリストとともに演奏した。
このように、自分の演奏会は開かなかったが、友人たちのコンサートに出演したり、サロンに顔を出したりで、さまざまな芸術家たちとの友情を育んでいた。ちょうどその頃、パリへやって来たヴィンチェンツォ・ベッリーニ (1801〜1835) は、ショパンが親しくしていた芸術家のグループに顔を出すようになり、意気投合した二人の間には、深い友情が生まれた。
この時期のショパンの友人は、リスト、ベルリオーズ、ヒラーなどで、日常生活においても行動を共にすることが多かった。彼らがよく集まった場所は、ヘルマン・フランク博士が借りていた住まいで、ショパンはそこを大変気に入った。
1832年暮れには最初に住んだポワシー通りを離れ、パリで二度目の引越しをしていた。
シテ・ベジェール四番の住まいだったが、その部屋にはショパンの趣味に合うような優雅な品のよさがなかったのだ。収入が増えるにつれて、もっと洒落た大きな部屋、フランクのショッセ・ダンタンのアパルマントのようなところがいいと、強く思うようになった。フランクはベルリンやロンドンに行くことも多く、その間は、ショパンが自由に使っていいと言ってくれた。居心地のよいこの住まいをショパンは気に入って、≪エロルドのテーマによる華麗なる変奏曲≫ 作品一二や ≪ノクターン≫ 作品一五、≪ボレロ≫ 作品一九、≪ワルツ≫ 変ホ長調・作品一八、≪練習曲≫ 作品一0をここで完成させた。
1833年秋になると、留守がちのフランクはショパンの希望をかなえようと、部屋を又貸してくれることになった。同居人はワルシャワ時代からの知り合いであるシレジア人の医学博士、アレクサンデル・ホフマンだった。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ