〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/11 (土) 

パリのポーランド人
この時代、パリにどれほどのポーランド人がいたかは正確には分からない。1830年十一月二十九日に起こったワルシャワ蜂起を知って、ウィーンに同行したティトゥスが帰ってしまったことは前述した。このワルシャワでの動きに対して、フランス国内では支援をとの声が高まったが、政府は行動を起こさなかった。ポーランドでは四月三十日チャリトリスキを首長とする革命政府が独立宣言し、平和解決を願ってイギリスやフランスの協力を望んだが、両国とも積極的に動こうとはしなかった。ロシアはその消極性に乗じて、十五万人のロシア兵を動員してワルシャワを攻めた。対するポーランド兵は八万人、三百の大砲を打ち込まれてワルシャワは陥落し、多くの犠牲者が出てたくさんのポーランド人が囚われの身となった。
パリでは 「ポーランド万歳」 と群集が集まってデモを繰り広げていた。貴族たちの間でもポーランド支持は広がっていった。ロシア、プロシア、オーストリアに対する国家としての勢力争いからフランス人がポーランドを支持するという側面ももちろんあるが、ワルシャワが陥落したとき、ポーランドの悲劇はパリの人々の心を大きく揺さぶっていた。フランス人が革命で手にした 「自由」 を同じようにポーランドも得るべきではないか。そう考える文化人が多かった。フランス革命で活躍したラ・ファイエット将軍はポーランド支持を表明し、平等、自由を認めない圧政をを憎むロマン主義文学者たちがその考えに賛同する作品を次々に発表した。ヴィクトル・ユゴー、テオフィル・ゴーチェ、エミール・ドシャンプ、カジミール・ドラヴィーニュ、ピレール・ベランジェなどがその中心にいた。
チャルトリスキ公などポーランドでの革命の首謀者たちの多くがフランスに亡命を求め、受け入れられた。そのためショパンはパリで旧知のポーランド人たちの多くに会えることとなった。
その中にラジヴィウ、チャルトリスキ、デルフィナー・ポトツカといった大貴族たち、ミツキエヴィチ、ヴィトフィッツキ、ザレスキといった革命詩人や、カジミエンシュ・ヴォジンスキ、ユリアン・フォンタナといった高校時代の友人がいた。
パリのポーランド社会の中心地は、なんといってもランベール館を住まいとするアダム・チャルトリスキ公の所だった。そこには連日ミツキェヴィチらが集まっては政治活動を再開しようと話し合っていた。ショパンもランベール館に出入りし、亡命詩人たちと熱心に話しをしたが、実際には政治運動に入り込むことはなった。
ショパンはティトゥスにパリの様子を書いた。パリには廉価な品のない本があるかと思うと、貧乏人が大勢いて、ルイ・フィリップの無能ぶりに、市民は今にもその怒りを爆発させそうになっている。しかし警察の力が強く、反政府を叫ぶ群衆はすぐに取り締まられる。しかし群集も負けない。イタリアの将軍ラモリノがワルシャワから帰って来ると、ポーランドのために戦った将軍の勇気をたたえようと群集は熱狂して、ショパンの部屋がある通りの反対側に住む将軍の所に押し寄せた。さらにその数日後にはもっと大きな騒ぎが起こった。ショパンは自分が住むブ0ルヴァールに面したバルコニーから見た一部始終をティトゥスに報告した。群集は出発点であるバンテオン広場で大集会を開くと、その数を膨張させながらポン・ヌーフに向かって殺到していったこと、この群集による騒動は朝十一時に始まり、夜の十一時になってラ・マルセイエーズを合唱すると解散してやっと収まったこと。ティトゥスの手紙にこのような状況を書きながら、これから夜会だから服を着替えて馬車で出かけなければとある。ポーランド人のために戦ったラモリノ将軍のために晩餐会が催されることになり、そこに招待されていたのだ。晩餐会には優雅なパリの主だった貴族たちが招かれて華やかなことこの上なかったが、しかし、会場から一歩出れば、政策に不満を爆発させそうな貧民たちの群れに出くわした。
パリでの知己も少しずつ増え、ウィーンで味わったポーランド人であることの肩身の狭さを、到着して一ヶ月たっても一度も感じる場面に出くわさなかったことが、ショパンには嬉しかった。しかし演奏家として生きていく確かな手ごたえは、まだ獲得できない。だから不安で、眠りが浅く、心地よい気分になれないとティトゥ巣に訴えた。
このように不安を抱きながら日々を送っているというのに、故郷の知人から1832年春に手紙が来た。ユゼフ・ノヴァコフスキで、演奏活動をしたいのでパリに行くつもりだが、なにか心づもりの必要があれば教えてほしいと言って来たのだ。ショパンはさっそくその返辞を出した。パリに来るにはかなりの貯えを用意しなければならないこと、パリでは弟子を取るのは困難であること、演奏会もなかなか開けないこと、それは目下流行しているコレラのせいばかりでなく、政治情勢が悪いからだと書いた。バイヨ、エルツ、ブラヘトカといった名のある演奏家ですら演奏会を取り止めたほどだと書くが、それはとりもなおさず、この年の四月の時点では、ショパン自身の成果がないことへの気持の裏づけでもあった。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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