1831年十二月十二日にティトゥスに出した手紙では、二十五日にデビュー演奏会をすることとなっているとある。すでに演奏家として認められている証だと自慢気で、パガニーニのライバルのバイヨと、同じく名高いオーボエ奏者ブロとの共演が予定され、ショパン自身は
≪ピアノ協奏曲≫ ホ短調、≪モーツァルトのオペラ 「ドン・ジョバンニ」 の <ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ> による変奏曲≫ を演奏し、さらにカルクブレンナーと彼の作品
≪序奏と行進曲付き大ポロネーズ≫ を四台のピアノ伴奏を背景にピアノ二台による協奏をすることになっているという。 パリ到着早々に内容的にも最高の演奏会が決まり、はりきっている様子のショパンが目に浮かぶが、このような曲目のほかにさらに歌曲も入れる必要があるようで、ロッシーニにオペラ歌手を貸してくれるように頼んだ。 しかし結局、歌い手の手配がうまくいかずに翌年の一月に延期となった。しかも共演するカルクブレンナーが病気になって、さらに延期となった。 1832年二月二十六日プレイエル・ホールで、カルクブレンナーとの演奏会がやっと実現した。演奏曲目はベートーヴェンの
≪弦楽五重奏≫ 作品29、二重唱、オーボエ独奏、カルクブレンナーの ≪大ポロネーズ≫ 、ショパンの ≪ピアノ協奏曲≫ ホ短調と ≪モーツァルトの 「ドン・ジョバンニー」
の <ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ> による変奏曲≫ だ。演奏会の入りはよくなかった。チケット代が十フランと高かったせいだとも、あるいはコレラが流行っていたために人ごみに出ることを恐れる人が多かったからとも考えられる。ホールの三分の一ほど入った聴衆にはショパンを応援するポーランド人が多かった。さらにリスト、メンデルスゾーンの顔もあり、
『ルビュー・ムジカル』 の創始者フランソワ=ジョゼフ・フェティスがいた。彼は三月三日にこの雑誌に批評を載せ、ショパンの作品が独創性にあふれ、旋律は斬新で、聴衆は非常に満足していた、演奏家としては、優雅で華麗、称賛に値するという言葉も並んだ。しかし転調が多いこと、フレーズのつながりに不自然さが感じられて、即興演奏のようでもあったといくらか批判も書いた。 ショパンは引き続き、演奏会をと考えて、パリ音楽院演奏協会に出演を願い出た。だが望みは受け入れられなかった。 五月にはパリ音楽院ホールでのモスコヴァ公爵主催の慈善演奏会に出演した。ここでショパンは
≪ピアノ協奏曲≫ ホ短調の第一楽章をオ−ケストラとともに演奏した。今回も前回と同様にピアノの音が小さすぎると批評され、さらにオーケストレーションが不十分だと批評された。収入もなく、ショパンの様子を心配した姉のルドヴィカは、お金を送りましょうかと言ってきた。 コンサート・ピアニストとしてやっていけるのか、ショパンは演奏会の少なさから自信が持てなくなっていた。 一回二十フランのレッスン収入とサロンでの演奏の謝礼が、ショパンの生活を支えていた。ポーランドの亡命貴族たちとリストやメンデルスゾーンといった音楽界で活躍する人たちの知己で、少しずつ社交界に呼ばれるようになった。 |