〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/09 (木) 

父の安心と怒り

到着早々、このようにショパンは音楽家たちからの歓迎を受け、彼らとすぐに打ち解け、パリでの生活を順調に滑り出させた。
その様子を故郷の父はほっとした思いで、遠くから見ていた。有名な音楽家たちと知り合えてほんとうによかった、彼らの演奏を聴くことが勉強になる、といかにも父親らしい口調で1831年十一月二十七日の手紙ははじまった。しかし、ショパンに温かく接してくれる芸術家たちに感謝しながらも、フリードリヒ・カルクブレンナー (1785〜1849) がショパンに言ったことには、合点がいかないと書く。ショパンは自分より二十五歳年上のドイツ人のカルクブレンナーという当時最高のピアノの奏者と仲良くなったと報告し、さらにカルクブレンナーが自分を三年間指導してくれると言ったと書いた。
この手紙に父と姉のルドヴィカは、すぐに驚きと戸惑いを隠せないといった返事を送った。父は演奏テクニックについて、ショパンは幼い頃から普通は一日かかるものに、一時間で十分だったので、三年もどうして必要なのか分からないと書いた。
ルドヴィカはショパンの判断にさして異論を感じないとしながらも、すぐにエルスネルに相談に行った。エルスネルは怒ってしまった。カルクブレンナーはショパンの才能に嫉妬しているから教えるなどと言うのであって、ショパンが注目されないようにもくろんでいるに違いない、とルドヴィカに答えた。エルスネルはショパンの性格がよすぎるから、カルクブレンナーの言うことに耳を貸すことになる、カルクブレンナーの模倣などしたらショパンの才能はつぶされると考えていた。ショパンの音楽ほど新鮮なものはないのだから、こういった言葉をエルスネルはルトヴィカに託し、さらには自らも、カルクブレンナーの教えを受ける必要は一切ないと強い口調で手紙を送った。
しかし、カルクブレンナーの話しをすぐに断らなかった理由を、ショパンはティトゥスに十二月に宛てた手紙に書いている。パガニーニはヴァイオリンでは完璧だが、カルクブレンナーはピアノでそれに匹敵するからだ、とある。しかし結局、ショパンは丁重に断って、二人はその後、年齢の離れた友人として終生親しく交際した。
この頃、ドイツにいるシューマンはショパンの ≪モーツァルトのオペラ 「ドン・ジョヴァンニ」 の <ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ> による変奏曲≫ 作品二に感激して、オペラの場面にショパンの音楽を重ねて語り、十枚におよぶ批評を評論雑誌に載せた。それをショパンに送ってきたが、シューマンのこの作品に対する熱狂はショパンを苦笑させるほどのものだった。数年後に二人は会うことになるが、シューマンがショパンに熱中するのに対して、ショパンの反応は冷たかった。
エルスネルはショパンにオペラを作るようにとも言ってきた。ただピアノを演奏して、そのための曲を作るのではなく、ロッシーニ、モーツァルトに匹敵するオペラ作曲家になれるはずだから、そのための才能をのばすようにと、姉の手紙に自分の希望を託した。
しかし、それに対してショパンは、パリの音楽界は非常に水準が高く、オーケストラは三つもあって、最高の音楽家たちが集まっている中で、自分はどのように自活の道があるのかと考えていると書いた。作曲家で演奏家であるとしても、レッスンをすることがもっとも収入を得られる、だからそれを生活の糧にするのがいいのではと思っていた。パリでの生き方をまだ模索している自分が、オペラという新しい大規模な分野に挑戦するつもりはないのだと、師エルスネルに丁寧な口調ながら、その意に添うつもりはないと伝えた。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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