〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/09 (木) 

リスト、ヒラー、メンデルスゾーンとの出会い
パエルは到着後間もないショパンに自分の弟子だったフランツ・リスト (1811〜1886) を紹介した。演奏においても行動においても派手なヴィルトゥオーソを演出しようとするリストとショパンには共通点はなかったが、すぐに打ち解けた。
ショパンより一歳年下のリストはハンガリー生まれで、ジプシー音楽を愛していた。ショパンと知り合った時は二十歳に過ぎなかったが、波乱万丈に経験を重ねたためか、どこか影のある様子だった。しかし、いかにも芸術家らしい風格も備え、パリで最も注目される音楽家の一人として、演奏会に多くの聴衆を集めていた。
「僧服を着た曲芸師」 と称されるほど宗教への憧れを隠さずに、それでいて演奏はあたかも曲芸のように極端ともいえるほどの派手な演奏ぶりのリストは、目の前に立つショパンの様子に魅了された。 「自分に備わっていない貴族的雰囲気に包まれていて、まるで生まれながらの王子のようだ」 とショパンを称賛した。自分と同じように貴族ではないが、生まれ持った気品が備わったかのようなショパンの様子、そてに見合うかのような繊細な指、そこから生み出される音楽が示す美しい独自性、そのいずれにもリストは強い魅力を感じたのだろう。
ショパンはフェルディナント・ヒラーとも友人になった。ヒラーはドイツ出身の作曲家でピアノ奏者だ。ヒラーは1828年から七年ほどパリに滞在し、その間にショパンやリスト、ベルリオーズら同じ世代の若い音楽家たちで進歩的な音楽家集団を作って、ロッシニーから激励される活躍をした。ヒラーが後に語った思い出によると、ショパンとの友情は深いものがあり、会えないと寂しくなってショパンがレッスンを始める前に話しをするために、朝、急いで会いに行くこともあったという。
パリでメンデルスゾーン (2809〜1841) と知り合ったのはヒラーの紹介による。当時パリに住んでいたメンデルスゾーンとはすでにミュンヒェンで出会っていたので、すぐ打ち解けた。親しみを込めてメンデルスゾーンは、ショパンを 「ショピナー」 「ショピネット」 と愛称で呼ぶようになった。メンデルスゾーンはライプチッヒで指揮者として音楽院創立者としてめざましい活躍をするようになるが、たびたびショパンに来てくれるようにと手紙を書き、ショパンの音楽とその人物への憧れを隠さない言葉を並べた。
生涯の友人オーギュスト・フランコム

チェリストのオーギュスト・フランコム (1808〜1884) との出会いはショパンに新たな才能の開花をうながした。この卓越したチェロ奏者との友情が、ショパンに晩年の室内楽の傑作 <チェロ・ソナタ> を書かせる意欲の源となった。
フランコムはショパンより二歳年上で、二人を引き合わせたのはリストであった。楽器の音色ではピアノの次にチェロを愛していたショパンは、自分と同じようにもの静かで控え目なフランコム、そのすばらしさにチェロ演奏に深く心を動かされた。
ショパンがパリに到着して間もなく初演されたマイヤベーアのオペラ <悪魔のロベール> は大人気で、楽譜製造業者のシュレザンジェがショパンに、このオペラのアリアを主題に変奏曲を書いてほしいと依頼してきた。
ショパンはフランコムの協力を得て、ピアノとチェロのための協奏曲 <マイヤベーアのオペラ <悪魔のロベール> の主題による大二重協奏曲> ホ長調を完成させることが出来た。二人の友情はショパンが死ぬまで絶えることなく続き、それを記念するかのように、ショパンは晩年に傑作 <チェロ・ソナタ> をフランコムに献呈し、二人での演奏をなによりもの楽しみとした。
ショパンが残した作曲スケッチによると、この <チェロ・ソナタ> のヴァイオリン版も考えていたようで、フランコムとの出会いはショパンには室内楽への意欲をかきたてるものだったことがよくわかる・

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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