〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/08 (水) 

パリの住まい

パリでのショパンの動向が書簡で明らかになるのは、到着して二ヵ月後の1831年十一月だ。
その手紙はミュンヒェンで別れベルリンへ向かったクメルスキ宛で、 「パリに入ることに問題はなかったが 、お金がとてもかかった」 とある。初めて来た大都市で住まいを探すといったことにお金がかかるということだろう。
ショパンがフランス国内に入った1831年、フランスの全人口は二千三百五十万人、パリの人口は七十八万五千人あまりだった。ショパンはこの手紙でブールヴァール・ポアソニエール二十七番地の五階の小さな部屋に住んでいる、と書いている。ブルーヴァールとは城壁の壁を意味した言葉だが、十七世紀には城壁をとり壊して大きな通りとなり、ショパンはこの中のポワソワーニエール通りと呼ばれる高級な店が並ぶ界隈に住んだ。
全体はグラン・ブールヴァールと呼ばれ、バスティーユからマドレーヌ教会にいたる半円形の通りのことを指している。バスティーユ広場からレビュブリック広場までのブールヴァールの東寄り地区は芝居小屋、レストラン。市場など活気にあふれた歓楽街で、ショパンが住んだ西寄りのブールヴァールでは、イタリア大通に向かってエレガントでファッショナブルな服装に身を包んだ金持ちや貴族たちが、馬車に乗ってやって来て、しばしの散策を楽しみながら、店をのぞきカフェでコーヒーを飲んでいた。
パリの印象を、ショパンはクメルスキに喧騒、騒音、群集と泥濘だと書いている。泥濘とはどういうことだろうか。ブールヴァールも雨になると、乗合馬車やさまざまな馬車が走っては泥をはねた。貧乏人から金持ちまでありとあらゆる階層の人がいて、そんな群集の中に没してしまえば、自分のことを誰も気付かないだろう。しかし、それが大都会の魅力ではないかとも書いている。
ワルシャワの混乱を避けて、パリにはたくさんのポーランド人が来ていた。その中にはラジヴィウ公も、ポトツカ伯爵夫人もいた。彼らとバイエル家で会うことになっている、とショパンは書くが、このような貴族たちとポーランド語で話すたびに、パリに出来るだけ長くいたいと考えるのだった。
しかし、ショパンのパスポートは、パリを経由してロンドンに行くというロシア政府発行の限定付きパスポートだった。
だがこの問題は、手にしてきた数通の紹介状が解決してくれた。ウィーンでショパンを温かくもてなしてくれたマルファッティがパエルに宛てたものが、威力を発揮したのだ。ナポレオンに重用されるなど、パリ音楽界の実力者でイタリア座の監督であったパエルはさっそく、ショパンのためにフランス政府役人に書状をしたためた。ポーランド出身のこの若者は革命によって国外退去となったが、ウィーンの貴族や新聞からその才能を認められた人物である。だから、彼の滞在延長を許可してほしいといった推薦状が功を奏した。
まもなく 「芸術が完成の域に到達するまで」 と但し書き付きの滞在延長許可がおりた。ショパンは、三年間パリにいるつもりだとクメルスキに書くが、六年たった1837年七月にはフランス政府からパスポートが発行され、ショパンはロシアからの完全な自由を得ることとなる。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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