〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/06 (月) 

ウィーンを見限る
ウィーンに絶望したショパンは、パリ経由ロンドン行きのパスポートをなんとか手に入れ、パリに向かうことにした。フランス大使のサインがあれば、パリに留まることが出来るのでは、という希望を抱いていた。しかしすべてのことに時間がかかり、さらに健康診断書も必要だった。というのは、ドイツからコレラが流行し、オーストリアまで達したいからだ。
ミュンヒェン行きの旅費を銀行から借りるなどして、ショパンがクメルスキとともにウィーンを出発したのは、1831年七月二十日のことだった。
リンツからアルプスを越えてザルツブルグへ向かい、そこでモーツァルトの生家を訪ねた。さらにニュンヒェンへ足をのばして、ここでポーランドからの送金を待った。
そのため、ミュンヒェンには一ヶ月近く滞在することになり、その間に指揮者のヨゼフ・ハルトマンなどの音楽家たちと知り合いになった。彼らからフィルハーモニック・サンデーマチネに招待され、八月二十八日には、<ピアノ協奏曲> ホ短調と <ポーランド民謡による大幻想曲> を演奏した。
この演奏会についてはミュンヒェンの新聞 『フローラ』 に批評が出た。<ピアノ協奏曲> については 「華麗で技術がすばらしい。ロンドの主題と中間部分はいいが、作品としての独自性と奥深さに欠ける」 とある。 <ポーランド民謡による大幻想曲> の方は称賛されて、 「このスラヴ的な民族音楽には聴衆を興奮させるものがある。それが具体的に何かということは難しい。とにかショパン氏の幻想曲にホール中なら称賛の声があがった」 と書かれた。
コンサート後まもなくしてポーランドからの送金を手にすると、ショパンはクメルスキと別れ、一人でシュトゥットガルトを経由してパリに向かうことにした。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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