〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/06 (月) 

ウィーンでの孤独
ティトゥスはポーランドに急いでかえって闘うことにした。自分もそうしたいとショパンは迷い、とうとう帰る決心をしたが馬車が間に合わず、結局一人ウィーンに残ることになった。
十二月クリスマス前に家族に宛てた手紙は、意気消沈している様子がよくわかる。ベルハイム家のパーティ招待されたが、演奏を乞われてもどうしても弾く気になれなかったこと、どうして自分はポーランドを離れてしまったのかなどを書き連ねている。しかし、家族に心配をかけまいと思いなおしたのか、有名なヴァイオリン奏者スラヴィクと知り合い、その演奏がパガニーニに匹敵するほどのものだと感動したこと、ピアニストのニデツキが朝来ては演奏することなどを書き連ね、毎日が覇気あるものだと強調している。さらにティトゥスとともに借りた三部屋を又貸しして、自分はその階上に移り、それによって60フローリンが手に入る、しかし貧乏人が借りる最上階ではない、景色は最高だとも書いている。前回のウィーン旅行でも一緒だったロムアルト・フーベが同居人となった。
元気を装いながらも、ウィーンの音楽事情はショパンをいらいらさせている。 「バイエル家でマズルカを踊った、しかしそれがワルツを踊るための変なステップだったこと、ウィーンの人々は食事をしながら楽しむのは結局のところワルツだ」 と書く。ワルツに大喝采する舞曲好みのウィーン人、 「ウィーンの音楽趣味は最低だ」 と怒りを隠さない。
ティトゥスは闘いの場にいるので、ショパンはワルシャワの友人ヤン・マトゥシンスキへ手紙を書いた。 「涙で君の手紙がぼやける」 。ポーランドを思う苦しみの感情をどうしたらいいのだ、と気持を投げかける。どうして出発してしまったのだろう。マトゥシンスキ、今の僕の様子を見たら、君も僕の気持をわかってくれるはずだと、異国で迎えるはじめてのクリスマスの寂しさを切々と訴えている。一年前のクリスマスには家族と一緒だったのに、姉ルドヴィカの髪で作った指輪だけが家族の香りを感じさせると書く。僕の手紙など、君にとってたいしたものではないかもしれないが、でも何度、君の手紙を読み返すことか。
コンスタンツヤの健康をたずねて、直接手紙を書けない苦しさも伝えている。検問されるかも知れない手紙をコンスタンツヤに出せば、彼女が困ることになるかも知れない。だからコンスタンツヤに自分が心配していると伝えてほしいとある。この手紙には憂鬱、無気力、孤独の文字が並んでいる。家族のもとに帰りたくてしかたのないショパンは、言葉を重ねる。自分がいるかのようにワルシャワの家族やコンスタンツヤに会ってほしい、そして音楽会にも行ってほしい。いつもマトゥシンスキと自分は一緒にいるのだから、とある。
マトゥシンスキとショパンは、その後も長い付き合いを続けた。ショパンがパリに到着して三年後、テュービンゲンの大学で医学の勉強を終えたマトゥシンスキがパリにやって来た。それからはパリでもっとも親しい友人として、同郷のユリアン・フォンタナとともに、ショパンの支えとなった。ショパンはマトゥシンスキと二年間一緒に暮らした。マトゥシンスキは1836年に結婚し医学者として成功したが、1842年若くして亡くなり、ショパンにたいへんな悲しみを与えた。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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