〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/05 (日) 

ティトゥスといっしょのウィーン

ポーランドとオーストリア国境のカリシュで、ティトゥスが乗合馬車に乗り込んで来てショパンはほっとした。
ショパンはほんとうにティトゥスを頼りに思っていた。ティトゥスには自分に欠けている自立心、精神力、決断力といったものすべてが備わっていると尊敬していた。1826年から30年までで残っている書簡四十通のうち十八通もがティトゥスに宛てたものだった。ワルシャワではじめて演奏会をしたショパンはティトゥスに、ジャーナリズムの称賛などどうでもいい、 「君が聴いてくれて僕を見てくれれば」 それで満足だと書いている。
音楽家として自分が進むべき道がどのようなものか、ウィーンに出発する前もショパンは迷う気持をティトゥスにぶつけている。 「貴族のために、それとも市民のために演奏すべきなのだろうか。どちらにしても聴衆を満足させることが出来ないのではないだろうか」。
ティトゥスへの手紙はどれも長く、自分の日常、思いのつれづれを書いては、そこで自分の気持を整理し、ティトゥスから返事がくれば気持にふんぎりをつけることが出来たようだ。
それほど信頼を寄せているティトゥスがいっしょにウィーンに向かうのだから心強かった。ウィーンに到着する前に、まずブレスラウに立ち寄って四日間滞在し、次にドレスデンに向かった。
そこでコマール伯爵夫人に招かれて、彼女の娘の一人デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に初めて会った。その後、プラハに立ち寄って、ウィーンに着いたのは十一月二十三日だ。
安宿に泊まり、銀行で金を手にすると、コールマルクト通りの四階に三部屋のアパートを借りることにした。ピアノ製造業者のグラーフんp店に行くと、ショパンのアパートにさっそく無料でピアノを入れてくれることになった。すぐに演奏会をしたいと考えているのは、前回ウィーンの思い出がとてもよく、コンスタンティン大公がウィーンのロシア大使に宛てた紹介状などもぬかりなく持っていたからだ。
しかし、今回は手助けしてくれる人がいない。演奏会を絶賛してくれたブラヘトカはシュトゥットガルトに行ってしまっていなかった。ヴュルフェルは歓迎してくれて、演奏会を開くようにと言ってくれるが、彼自身が喀血して家に引きこもっていて、ショパンのために動くことは出来なくなっていた。ケルントナトーア劇場のガンベルクは支配人を辞めていた。楽譜出版業者のハリスリンガーの所にも行ったが、二年前に送った <ソナタ> 作品四も出版していなかったしコンチェルトはショパンが出版権利を返してもらうと言わなかったら、その出版も実行しそうになかった。
失望したショパンは、ウィーンに住んでいる同郷のピアニストのトマシュ・ニデッキを訪ね、チェルニーに会いに行き、彼の紹介でベートーヴェンの主治医だったマルファッティと知り合いになた。ショパンが来ることを楽しみにしていたというマルファッティは、大使夫人に紹介したり宮廷にショパンを連れて行ったりと、様々な心づかいを示してくれた。マルファッティはウィーン郊外の自分の別荘に何度も招いては、そこで開かれる音楽の夕べや夫人の作る夕食でショパンをもてなした。マルファッティの尽力でショパンは演奏会をすることになるだろうと、家族の手紙に書いた。しかしいつ、どこで、などはまだ決まっていないともある。
十二月一日の手紙では、ショパンは十一月二十九日にワルシャワで武装蜂起が起こったことをまだ知らないのがわかる。滞在費用の援助を願ってユダヤ人のガイミュラーを訪ねたが、 「ウィーンにはピアニストはたくさんいますよ」 と断られたことを腹立たしげに書いており、またイタリアに行く計画についても書いている。
やがてワルシャワで暴動が起きたニュースが、ショパンのもとにも届いた。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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