ショパンは、あちこちのサロンに招かれ、そのような中でも楽しみのしていたのが、金曜日ごとにケスラー家で開かれる音楽の夕べだった。壮麗な作品としてショパンが好んでいたのはシュボアの
<八十奏> や、フンメル、ベートーヴェンの室内楽で、なかでもベートーヴェンのピアノ三重奏曲 <大公> 変ロ長調・作品九七について、この作品は世界を圧倒するほどのものだとティトゥスに書いた。 ワルシャワで二回の演奏会を終え、1830年四月の手紙では、第三回がこれまで以上に期待されているが、自分は開かないつもりだと書いている。 この年の何月のなかばにはティトゥスの故郷のポトゥジンに行き、ポーランドやウクライナの民謡を聴いている。この滞在の間も、ティトゥスはショパンに、一、二年の外国旅行を強く勧めたいた。コンスタンツヤのことを二人で話し合ったのも確かだが、七月二十四日にコンスタンツヤがバエルの
<アンジェラ> でデビューするのを知って、ワルシャワニ急いで戻った。批評には様々な意見があったが、ショパンは興奮した様子でティトゥスに手紙を書いた。
「グワトコフスカは最高だった」。 八月末にはティトゥスに宛てた手紙では、九月早々にはウィーンに向けて出発するつもりだが、ドイツの不穏な動きを父ミコワイが心配するために、出発を延ばしに延ばしにしている。と綴っている。夏の終わりにブルボン君主失墜のニュースがワルシャワニ届き、ニコライ一世がフランスに侵攻という噂が立ち、自由になれるのではという気運が高まった。しかしドリスデンやベルリンなどプロシア同盟に広がっている不穏な動きがワルシャワニも伝わってくるので、ショパンの父はこの時期に旅に出ることを不安に思っているようだった。 ショパン自身は政治に興味はあなりなかったが、カフェに集まっては政治への不満とポーランドの将来を語り合うボフタン・ザレキス
(1802〜1886) やステファン・ヴィトフィッキ (1801〜1847) という反政府詩人たちとは親しく付き合っていた。そのことが父の心配に拍車をかけた。
出発を決められないでいる間、ショパンはあいかわらずコンスタンツヤへの思いを募らせていた。九月の末にティトゥスに出した手紙では、思いがけず教会でコンスタンツヤがショパンに視線を向けたとある。ショパンは嬉しさのあまり有頂天になり、どうしていいかわからなくなるほど混乱し、教会から走り出たという。放心状態のショパンを見て、知り合いの医者パリスにどうかしたのかと尋ねられたので、とっさに犬が自分の足元に飛び込んで来たので転んだのだと、嘘をついたとある。 十月になって、ウィーンの状況は落ち着き、さらにティトゥスが同行することにしたので、ショパンはいよいよウィーンに向けて出発することにした。 祖国の人々に別れを告げる演奏会を開いたのは十月十一日だった。曲目は
<ピアノ協奏曲> ホ短調、 <ポーランド民謡による大幻想曲> などで、ショパンのたっての願いでコンスタンツヤの出演も実現し、彼女はロッシーニの
<湖上の美人> のアリアを歌った。白いドレスに身を包み髪にバラを挿したコンスタンツヤの姿も声も美しく、ショパンは幸福だった。そのせいか、最後の曲
<ポーランド民謡による大幻想曲> をショパンは落ち着いて演奏できた。ティトゥスへの報告に、自分の演奏はもちろんのこと、オーケストラの音も、聴衆の様子、すべてがよくわかったとある。満員の聴衆は
<ポーランド民謡による大幻想曲> の終曲クラコヴィアクに熱狂し、アンコールを叫んだという。ショパンは満足した様子で、これほどオーケストラとうまく呼吸が合ったことはないとティトゥスに書いている。 |