〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/03 (金) 

ワルシャワでの演奏会
「ショパンの才能は外国で熱狂されたが、故郷ではまだ演奏を聞かれていない。ショパンの才能はポーランドの財産なのだろうか? ポーランドでは彼の才能を適切に評価出来ないのではないだろうか」 と批評家は書き、 『ガゼタ・ポルスカ』 には二月十二日、 「ショパンはイタリアに行くということだ。しかしポーランドで演奏会をせずにこの旅に出ないだろう」 という記事が出た。
ポーランドの人々がショパンの演奏にたいへんな期待を抱いているので、とうとう国立劇場で演奏会をすることにした。ウィーンで好評であったにもかかわらず、大きな会場での演奏をひどく負担に感じている自分をあらためて確認していたショパンは、しかたないといった様子だ。演奏会が終わったあと、ティトゥスに 「演奏会前の三日間は僕にとって拷問の日々だった」 と書いている。
第一回は1830年三月十七日、チケットは間もなく売り切れてしまった。
三月三日、演奏会用のリハーサルがショパン家のサロンで行われた。カルロ・クルピンスキが小規模のオーケストラを指揮し、エルネスやジヴニーも出席した。十七日は八百人の人々が聴きに来て、ワルシャワでの公開演奏会のデビューとなったが、曲目は当時の習慣そのままで、 <ピアノ協奏曲> ヘ短調の第一楽章と他の楽章の間に声楽曲や軽い気楽曲を含むというものだった。 <ポーランド民謡による大幻想曲> 作品一三も演奏されたが、師のエルスネル、クルピンスキのオペラの序曲などを間にはさんだ。音楽家ショパンへは絶賛の声が高かったが、しかし演奏するときの小さな音色には、若いのだからもっと元気よくといった批評が多かった。クルピンスキの意見も同じだった。しかし、全体としての評価はとても高く、超絶技巧の持ち主という意味のヴィルトゥオーソの名が与えられた。
ショパンは五日後に国立劇場で再度演奏会をした。 <ピアノ協奏曲> ヘ短調はそのままで、幻想曲の代わりに <ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク> を演奏した。最後はよく知られたポーランド歌曲をもとにした即興だった。このような即興演奏で才能を浪費しているとの評判も出たが、ショパンはそれに対して、聴衆が望んでいるものを知っているからだと反論している。
様々な批評が出た中で、ショパンがティトゥスに書き送った手紙にはなかなか興味深いことが書いてある。 「ドイツがモーツァルトを誇りにしているように、ポーランドはショパンを誇りとするだろう」 と批評家の絶賛が雑誌の載ったとある。さらに当時ワルシャワの音楽界で権勢を誇っていたのはエルスネルとクルビンスキで、二人はライバルと目されていたが、ショパンの才能がえるすねるの指導によるものだという意見に対して、クルビンスキはもともとショパンには特別なものがあって、エルスネルの力ではないと反論したとティトゥスに伝えている。
このような争点のきっかけに自分がなること、演奏会をめぐって曲目の選定にも席の確保にも人間関係がからむこと、そういった渦の中でますます巻き込まれていくいうで、ショパンはワルシャワという狭い世界に息苦しさを感じていた。
そうはいっても、ワルシャワでの最終年もあいかわらず社交界のための音楽も作りつづけた。
歌曲、マズルカ、ポロネーズ、エコセーズなど、それらのうち何曲かはエミリア・エルスネルのアルバムに書かれたが、規模の大きい作品にも、この時期のショパンの作曲傾向が見られる。
たとえば、 <チェロとピアノのためのポロネーズ> 作品三については、ショパン自身、上流階級用の貴婦人のための 「華麗な」 作品だと考えていた。 <ピアノ協奏曲> ヘ短調・作品二一はそれまでの二つのピアノとオーケストラのための作品と同じように、演奏会で注目されるヴィルトゥオーソに最適のものとして作ったつもりだった。この傾向をさらに強く感じさせるのが、ポーランドを出る一年前に作曲された <ピアノ協奏曲> ホ短調作品一一だ。
『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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