ショパンは四月に出会ったコンスタンツヤ・グワトコフスカを思いつづけていた。親友のティトウゥスに恋をしていることを打ち明けたのは、1829年十月だった。その手紙には
「僕にとって不幸なことかも知れないが、憧れの人を見つけました」 とある。 それは憧れのまなざしでコンスタンツヤを見つめるようになって、半年もたってからだった。親友にさえ、この恋心についてはなかなか話すことが出来なかったようだ。 何が
「不幸」 なのだろうか。手紙に戻ると、ウィーンで出会ったジャーナリストのブラヘトカの娘で美しく才能豊かなピアニストのマリーのことが書かれている。 「ウィーンにふたたび行きたいのは彼女のためではない」
とわざわざ断って、自分には 「憧れの人」 がいると書いたのだ。 今まで経験したことのない心の動揺に困惑したから不幸なのか、それともコンスタンツヤに恋しているのに、ウィーンにまた行かなければならない自分は
「不幸」 だということなのだろうか。 「ぼくは夢見ている。その重いでコンチェルトのアダージョ部分を書いた。今朝はさらに小さなワルツ (作品703)
も書いてみた。君に送ったものだ」 と曲に込めた思いを、ティトゥスに告白している。 ドイツの歌姫ヘンリエッタ・ゾンターがワルシャワに来たのはこの頃だった。ショパンはさっそくゾンスターのもとを訪ね、ソファに隣り合って座り親しげに話しを交わしたとティトゥスに自慢している。 ウィーンで成功を手にしたショパンへの招待の話しはたくさんあったが、結局ボスナニ近くにあるラジヴィウ公の館に行くことにした。ここに一週間滞在した間にショパンはチェロの名手である公のために
<チェロとピアノのためのポロネーズ> 作品三を作った。ラジヴィウは自作のオペラ <ファウスト> をショパンのために上演した。ショパンはラジヴィウ公の娘たちエリザとヴァンダにレッスンしたが、とくに十七歳のヴァンダの音楽的才能を認めた。自分の肖像画を描いたエリザに、
<ポロネーズ> ヘ短調作品七一の三を書き写して贈りたい、と思ったショパンは、その楽譜を持っていティトゥスに返してくれるようにと頼んでいる。記憶を呼び戻して書くことをためらったためだろう。このようにショパンは自筆で作品を写して贈り物にすることがあった。 ラジヴィウ公爵夫人はさらに五月にベルリンに来ないかとショパンを誘った。それほどショパンはラジヴィウ家で大切にされていた。ショパンの父はラジヴィウ家がもしショパンの後ろ盾になってくれたらと望みを抱いたが、しかしそれは実現しなかった。ショパンは楽しかった日々への礼の気持を込めて、室内楽
<ピアノ三重奏曲> ト短調・作品八をワルシャワに帰った後、ラジヴィウ公に献呈した。 |