〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-]』 〜 〜
== Fryderyk Franciszgk Chopin ==
(著:小阪 裕子)

2017/02/02 (木) 

ワルシャワへ
第二回演奏会の後に、一行はポーランドへの帰路につき、途中三日間プラハに滞在した。プラハ国立博物館では記念帖に学友イグナツィ・マチェヨフスキが四行詩を書き、ショパンがマズルカの曲を記した。さらにウィーンで紹介状をもらってきたヴァイオリン奏者のヨハン・ビクシスと鍵盤演奏者のアウグスト・クレンゲルを訪ねた。クレンゲルは自分の全調性によるフーガを二時間もショパンのために演奏した。
その後ドレスデンを一週間観光して、ワルシャワニ戻ってみると、ショパンの名はウィーに行く前よりずっと有名になっていた。ウィーンでの成功がワルシャワニも詳しく伝えられ、それを音楽雑誌や新聞が報じたからだ。
ショパンはワルシャワニ帰るとすぐに、ウィーンにまた行きたいとティトゥスに書いた。ウィーンに長くいることがショパンの音楽家人生を有利にさせると新聞報道されたせいもあるが、ワルシャワにいても音楽家としてこれ以上の成長は望めないと思っていたからだ。ウィーンからさらにイタリアへ、またパリへ行こうかと考えをめぐらしていた。
ショパンは楽譜販売店のブジェジーナの店で時間を過ごすことが多くなった。ウィーンやライプチッヒの最新の楽譜カタログと実際の楽譜が置いてあり、サロンのようでもあって、新しい楽譜を手にしては、そこに置いてあるピアノで演奏することが出来たからだ。
初 恋

ショパンは四月に出会ったコンスタンツヤ・グワトコフスカを思いつづけていた。親友のティトウゥスに恋をしていることを打ち明けたのは、1829年十月だった。その手紙には 「僕にとって不幸なことかも知れないが、憧れの人を見つけました」 とある。
それは憧れのまなざしでコンスタンツヤを見つめるようになって、半年もたってからだった。親友にさえ、この恋心についてはなかなか話すことが出来なかったようだ。
何が 「不幸」 なのだろうか。手紙に戻ると、ウィーンで出会ったジャーナリストのブラヘトカの娘で美しく才能豊かなピアニストのマリーのことが書かれている。 「ウィーンにふたたび行きたいのは彼女のためではない」 とわざわざ断って、自分には 「憧れの人」 がいると書いたのだ。
今まで経験したことのない心の動揺に困惑したから不幸なのか、それともコンスタンツヤに恋しているのに、ウィーンにまた行かなければならない自分は 「不幸」 だということなのだろうか。
「ぼくは夢見ている。その重いでコンチェルトのアダージョ部分を書いた。今朝はさらに小さなワルツ (作品703) も書いてみた。君に送ったものだ」 と曲に込めた思いを、ティトゥスに告白している。
ドイツの歌姫ヘンリエッタ・ゾンターがワルシャワに来たのはこの頃だった。ショパンはさっそくゾンスターのもとを訪ね、ソファに隣り合って座り親しげに話しを交わしたとティトゥスに自慢している。
ウィーンで成功を手にしたショパンへの招待の話しはたくさんあったが、結局ボスナニ近くにあるラジヴィウ公の館に行くことにした。ここに一週間滞在した間にショパンはチェロの名手である公のために <チェロとピアノのためのポロネーズ> 作品三を作った。ラジヴィウは自作のオペラ <ファウスト> をショパンのために上演した。ショパンはラジヴィウ公の娘たちエリザとヴァンダにレッスンしたが、とくに十七歳のヴァンダの音楽的才能を認めた。自分の肖像画を描いたエリザに、 <ポロネーズ> ヘ短調作品七一の三を書き写して贈りたい、と思ったショパンは、その楽譜を持っていティトゥスに返してくれるようにと頼んでいる。記憶を呼び戻して書くことをためらったためだろう。このようにショパンは自筆で作品を写して贈り物にすることがあった。
ラジヴィウ公爵夫人はさらに五月にベルリンに来ないかとショパンを誘った。それほどショパンはラジヴィウ家で大切にされていた。ショパンの父はラジヴィウ家がもしショパンの後ろ盾になってくれたらと望みを抱いたが、しかしそれは実現しなかった。ショパンは楽しかった日々への礼の気持を込めて、室内楽 <ピアノ三重奏曲> ト短調・作品八をワルシャワに帰った後、ラジヴィウ公に献呈した。

『ショパン』 著:小阪 裕子 ヨリ
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