はじめてのウィーン | ショパンの才能にはポーランドではもの足りないということが、誰の目にも明らかだった。 そのため父ミコワイは教育大臣グラボフスキに手紙を書いて、ショパンの海外留学への給費を願った。彼の妻はショパンの才能をよく知っているので、その援助を求めたのだが、しかし、この願いは内務大臣タデウシュ・モストフスキの拒否にあってしまった。 この結果は父ばかりでなく、音楽学校校長のエルスネルも失望させた。音楽学校でのショパンの帥表成績をエルスネルは
「きわめて才能があり、音楽の天才だ」 と書いていたからだ。 ショパンは学友たちとウィーンに卒業旅行することにした。ヨーロッパ中の演奏家が集まる所、ワルシャワよりはるかに大きな芸術都市ウィーンに行ってみようということになったのだ。 1829年七月ワルシャワを出たショパンたちは、南に350キロほど離れたクラクフに一週間ほど滞在して七月三十一日ウィーンに到着した。 さっそく、ロッシニーのオペラ
<シンデレラ> のほか、ボイエルデューの <白衣の貴婦人> やマイヤベーアの <エジプトの十字軍騎士> などを見て、その間にシュタインやグラーフといったピアノ製造業者のところに行き、英国タイプとウィーン・タイプのうち、ライト・アクションのウィーン・タイプが自分の好みであることを確認するなど、積極的に動きまわった。ヴァイオリン奏者のシュパンツィクと知り合いになることもでき、ワルシャワでのかつての恩師ヴュルフェルがショパンをケルントナトーア劇場の支配人ガレンベルク伯爵に紹介してくれた。ヴュルフェルの紹介で音楽家のカール・チェルニー、楽譜出版業者のトビアス・ハスリンガーにも会いに行った。ハリスハンガーはショパンからすでに作品二の変奏曲と作品四のソナタを受け取っていたが、ショパンが変奏曲を弾くのをまずは聴きたいと言った。 |
| 大好評の演奏会 | ウィーンに滞在中の八月十一日、ヴュルフェルの尽力により、ケルントナトーア劇場で演奏会を開くことおなった。ヴュルフェル指揮のオーケストラとともに
<ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲> を演奏し、民謡のフミエール (ポーランド民謡 <酒の歌>) と
<白衣の貴婦人> のテーマにもとづく即興演奏もした。 演奏会は大成功だった。家族に宛てた手紙では 「変奏曲が終わるごとに聴衆が熱狂するので、オーケストラのトゥッティが聞こえないほどだった」
と書いている。批評の好意的で、 「ショパンの演奏も作曲も独創性にあふれていて、もうすでにそこには才能が十分に感じられる」 と書いた。二回目の演奏会は八月十八日、
<ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク> を演奏曲目に入れた。 即興的な勢いと民族音楽的要素でショパンは聴衆を熱狂させた。民族音楽の要素がとりわけ魅力的だったようで、
「こういった種類の聴いたことのない聴衆には衝撃的な感動だったようです」 と家族に書いている。 第一回はもとより、さらに第二回目の演奏会は評判がよく、ジャーナリストのブラヘトカが、ショパンはワルシャワ以外の場所で学んだことがない、それがウィーンの人々にとってたいへんな驚きだと批評に書いた。ほかの音楽批評はショパンの演奏と作曲の特異性に注目した。ショパンはティトゥスに宛てた手紙でそれを書き写した。
「わが道を行く青年は、聴衆を楽しませるすべを知っている。その演奏方法と書法はほかのヴィルトゥオーソとはまったく違う」。 そのほかにもモーリッツ・リヒノフスキー伯爵宮へ招待されるなど、オーストリア最高の貴族たちから賞賛の言葉を次々に受け、チェルニー、シュパンツィク、イーロヴェツも自分を誉めそやすと書いている。 しかし大成功でも報酬はなかった。主催者に収入はありながら、新進の音楽家ショパンは、演奏会を開き新聞批評を手にしたことだけで大いに満足すべき、という立場に甘んじなければならなかった。
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